インデックス マスコミを斬る ニュース&オピニオン 行動案内 私たちの訴え
靖国神社探訪記
 

―遊就館は何を語っているのか―

坂本 陸郎

参 道
 地下鉄九段下駅を出ると、その向かい側に古色蒼然としたタイル壁の九段会館(旧軍人会館)が見える。建物は日本遺族会に、無償、永遠に貸与されているという。その屋上には靖国神社本殿の火災にそなえる遷座のための権殿(仮宮)が設けられている。
 当時のままだというタイルの貼られた公衆便所脇を通りかかると、入口の植え込みに細見の砲身が突き立っている。「弥助砲」、その名は大山巌元帥の幼名にちなんだものだという。日清戦争の頃のものである。人の出入りの多い場所を選んだとみえる。  参道脇に立つ品川弥次郎の銅像を傘の下から見上げた。戊辰戦争の英雄、一八九二年松方内閣の内相であった人である。その右手に大山巌の銅像もあった。かつての元帥、陸相、参謀総長、日清戦争の司令官、日露戦争の満州軍総司令官、元老、内大臣の赫々たる履歴を持つ軍人である。戦後、軍国主義的記念碑と像の撤去命がGHQと内務、文部両次官名の共同通牒によって下されたのだが、残されたものもあったのだという。
 陸橋を渡ると、大鳥居のすぐ前であった。銅板が張られた円柱が雨に光っていた。巨大である。説明によれば、高さ二十五メートル、笠木の長さ三十四、一三メートル、柱の直径二、七メートル、総重量百トン、厚さ十二ミリの対候性銅板。一九二〇年(大正八年)に竣工され、その後は一時解体され、鋼材は軍に献納された。その後は木曾材の木造仮鳥居が建てられたが、一九七四年に現在のものになったのだという。靖国の鳥居が潰されて軍部は無念だっただろう。当時、鋼材の六〇パーセントをアメリカからの輸入に頼っていたのだから、経済封鎖による鋼材の不足は深刻だったらしい。
 両脇に据えられた台座の上で狛犬が鎮座していた。口をあけ、威嚇するようにギョロ目を参道のほうに向けている。だが、その狛犬は日本で作られたものではなかった。
 生い茂る樹木を左右に見ながら暫らく歩くと、第二鳥居の近くまで来た。神門前の鳥居は明治のころ、当時の最先端技術を用いて、大阪砲兵工廠の反射炉を使って作られた。大鳥居に比べると小振りながら、緑青の渋みが効いて重厚である。 そこへ到る参道に、ひときわ巨大な大村益次郎像があった。皇居前の楠正成像と上野の西郷隆盛像と並ぶ東京三大銅像の一つ、高さ十二メートルの威容である。 大村益次郎は陸軍の創始者で、筒袖羽織に短袴を着け左手に双眼鏡を持っている。戊辰戦争の折、上野の方面を眺めていたのだという。

鹵 獲
 田山花袋はカメラマンとして、遼東半島の戦いに従軍したのだったが、その短編小説の中で、「狛犬は清国で戦利品として鹵獲したものであった」と書いている。また、明治末刊行の東京名所図解には、その姿かたちが内地の狛犬とは異なることが力説され、それが遼東半島で鹵獲したもので、「獅子運搬組」を編成し、運搬用の堅固な車を作って運んだことが書かれてあるそうだ。
 盗品の解説は戦果を誇示するためだったのだろう。当時、国外から盗んで持ち帰ることを鹵獲(ろかく)といい、盗んだものを「戦利品」と呼んだ。盗人は盗みを恥じないばかりか、猛々しかった。
 戦利品は他にもあった。それは本殿回廊わきに立つ「北関捷碑」である。その碑文には、豊臣秀吉の朝鮮侵略のころ、朝鮮民衆の義兵によって秀吉の軍勢が撃退された史実が刻まれていたのだという。日露戦争当時、この石碑を見つけた一少将が凱戦の土産として天皇に献上し、一時、皇居内に置かれたのだが、その後は靖国神社境内に移された。だが、これも盗品。韓国政府から返せとの要求があり、現在は建立の地である北朝鮮に置かれている。秀吉が撃退された史実が刻まれた碑文を、当時の軍部は解読できなかったのだろう。天皇へ献上するにはふさわしくなく、また靖国にもふさわしくなかった。

レリーフ
 神門近くの巨大灯篭脇に、次のような銅板のレリーフがあった。いずれも陸海軍が作らせたものである。

 ・北清事変天津城の攻撃
 ・日露戦争奉天入場式
 ・台湾鎮定警察隊の戦闘
 ・上海事変爆弾三勇士
 ・満州事変熱河長城攻撃
 ・救護日本赤十字社救護看護婦の活動
 ・上海事変上海付近の空中戦
 ・日露戦争日本海海戦戦艦三笠艦橋の東郷元帥
 ・日露戦争第二回旅順港閉鎖の広瀬中佐
 ・日清戦争黄海開戦

 これらは当時の軍が残した戦勲場面を記念する数々であり、日清日露戦争以来、隣国に攻め入った帝国日本の誇るべき記録絵であった。

隠ぺい
ブロンズのレリーフは、灯篭台座の四方に張られていて、参道に沿う左側の灯篭に陸軍の、右側の灯篭に海軍の戦勲絵が競い合う。説明によれば日本一の大きさである。  その大灯篭は一九三五年(昭和一〇年)に、富国徴兵保険相互会社(戦後はフコク生命、後に吸収合併)から奉納された。靖国神社との関係が密接であったことを物語るものである。
だが、戦後まもなく、そのレリーフにたいしてソ連と中国からクレームがついて危うく撤去されそうになったのだが、後に剥がせるように、レリーフの上に金網をかぶせ、漆喰で塗りつぶして難を逃れたということであった。靖国の戦後における再生への執念がうかがえる。

徴兵保険
 国民皆兵制が敷かれると、政府は「兵役税」法案を国会に上程した。戦死補償の財源というわけであった。ところが、それにたいして陸海軍両省が猛反対することになった。死を覚悟の上で出征する忠君愛国の兵士が命を落とすことは名誉なことであるのに、それを金銭で補償をするとは何事か、という言い分であった。
 当時はそれが正論であったのか、軍には勝てぬと思ったのか、政府はそれに屈し、国費を使うことをあきらめ、民間に委託した。委託された生命保険会社は「徴兵保険」と銘打ち盛んに勧誘した。それら保険会社は富国徴兵保険相互会社をメインに、第一徴兵保険相互会社(のちの東邦生命)、第百生命徴兵保険(第百生命)、「日本生命」、「やまと生命」などであった。
 広告と勧誘の効果があったのか、どの家庭も男児が生まれると競ってわが子を保険に掛けた。その掛け金は総額三〇〇円。二〇年後に被保険者が甲種合格ともなれば、千円の大金が下りる仕組みであった。甲種合格はなによりの親孝行でもあった。  そのように、庶民は徴兵制に協力して、そろばんをはじかされたのだが、敗戦後はインフレで大損をした。一方、生命保険会社は資金を蓄え、戦後の金融界に確固たる地位を占めた。
しかし戦後になって遊就館は不運の時代を迎える。GHQの指令によってすべての陳列品が撤去され、米軍に引き渡された。その後は徴兵制にたいする貢献の見返りとして、一九八〇年まで、展示施設の一部が富国生命一九八〇年まで貸与されたことで、富国生命は戦後における自社の信用度を高めたのだという。

犬、馬,鳩
 拝殿を左手に見て、桜の巨木が覆う下をしばらく歩くと、鳩と馬と犬の像が並んでいる。台座に、鳩魂塔、戦没馬慰霊像、軍犬慰霊像と記されている。伝書鳩は前戦の戦況を後方に伝え、軍馬は指揮官を乗せ、軍犬は敵の人影に目を光らせ、敵兵を見つけ出し、無辜の人々に吠えかかった。犬、馬、歯とたちも戦場で使役された。「兵隊は消耗品、馬は貴重品」と言われ、1銭5厘のはがき代で召集できる兵隊より数百円する馬の方が貴重であった。だが、戦場に送られた20万頭の馬たち、犬たちは一頭も帰ってこなかった。

武の歴史
 遊就館は前方右手に白亜の壁を見せていた。それは2002年に改築されたもので、旧館は一八八二年に作られた日本初の軍事博物館であった。そこでは神武天皇の御代から近現代へと続く「日本の武の歴史」が語られ、武具、記念品が展示されている。  現在の遊就館は分厚い瓦を乗せた切妻屋根の「近代東洋建築」の旧館と、ガラス張りの開放的な新館とからなっている。
 六四〇円の参館料を払って中に入った。入り口に置かれた見開きのカタログには、このように書かれていた。
「明治十五年、我が国最初で最古の軍事博物館として開館した遊就館は、時にその姿は変えながらも、一貫したものがあります。一つは殉国の英霊を慰霊顕彰することであり、一つは近代史の真実を明らかにすることです。
 近代国家成立のため、我が国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳を顕彰し、英霊が歩まれた近代史の真実を明らかにするのが遊就館の持つ使命であります。

 十万点に及ぶ収蔵品の中から、英霊のご遺書、ご遺品、歴史を語り継ぐ貴重な史資料を展示する遊就館からは、英霊のまごころ、そして近代日本の真姿が浮かび上がります」

零 戦
 「零戦」が玄関ホールに置かれていた。その大日本帝国海軍神風特攻機は戦闘機らしからぬ貧弱さであった。戦後、それを見たアメリカ空軍関係者が機体の貧弱さに驚いたという。操縦席とその背後の燃料タンクとの壁が薄板一枚でしかないことに我が眼を疑ったとか。パイロット零戦の防護は考慮されなかった。設計にさいして機動性と軽量化だけが求められたのだろう。
 零戦による「特殊攻撃」を思いつくに到る経緯は次のようなものであった。  海軍がそれまでにとった戦法は、敵艦からの機銃攻撃を避けるため、盲点と思われる海面すれすれに飛行し敵艦に接近し、甲板に攻撃を加えた後に飛び去ると言うものであった。だが、その戦果はほとんど見るべきものがなかった。
 やがて戦況が不利に傾き、訓練をつんだパイロットの多くが失われていった。そのことが特殊攻撃部隊の出陣を促したのだったが、その任に就いた訓練半ばの特攻隊員の痛ましさは、彼らの死が免れ得ないものであったことにあった。

靖国グッヅ
「零戦」のうしろに売店が設けられている。棚の上の戦前の教科書を手にして語らう老夫婦、親子連れや若い男女が、軍歌が館内に流れるなかで靖国グッズを手にして見ている。軍歌が収められたCD、零戦灰皿、軍人将棋、海軍さんカレー、日の丸シール、二十一型零戦プラモデル、戦艦三笠プラモデル、国旗バッジ、明治天皇と日露戦争ビデオ、明治大帝と乃木将軍、軍神山本元帥の肖像、連合靖国グッヅ
 その戦前の陸海軍の帽子と並んで航空自衛隊の帽子が置かれている。その帽子には、NAHA、MISAWA,CHITOSEの基地名が刷られている。自衛隊の戦死者が靖国に祭られることを暗示しているようだ。書籍は「正論」ほか靖国推奨の諸雑誌、単行本と戦前の教育図書、シリーズ本「英霊の言の葉」などであった。

機関車
「零戦」と並んで、泰緬鉄道で使われた蒸気機関車が展示されていた。その献納者名に「泰緬鉄道関係各部隊及び一般協力者」とあった。
日本軍は、ビルマに進駐した25万の兵のための供給路を開くためにタイとビルマを結ぶ鉄道の敷設を開始した。岩場やジャングルを切り開いて、全長四百五十キロの鉄路を、ふつうであれば五年かかるものを一年三ヶ月の驚異的短時日に建設したものであった。
 泰緬鉄道は、映画「戦場に架ける橋」でも知られ、ビルマへの補給路の確保と英米の蒋介石への軍需物資支援ルート(援蒋ルート)を遮断し、インド侵攻(インパール作戦)にそなえるものであった。この無謀で苛酷な工事のために、20万人を超えるアジア諸国の民間人と連合国軍の俘虜5万5000人が強制労働に使役され、炎熱と絶対的な食料不足のもとでの苛酷な労働と虐待、伝染病で俘虜1万3000人、現地民4万2000人以上が死亡したとされる。英国による戦後の調査によれば「泰緬鉄道」死者数はそれを超える七万四千二十五人であった。
 泰緬鉄道は「枕木一本、死者ひとり」といわれた過酷な労働であった。戦後になって、その所業が明らかとなり非難の的となったものである。展示されている機関車は、その非人道性を記念するものである。それは、捕虜は保護すべきとする国際協定違反であり、捕虜と他国の民衆にたいする人道に背く蛮行であった。
 ジョージ・ヒックス著「性の奴隷・従軍慰安婦」(三一書房)に、当時の指揮官の回想として、次のような事実が書かれている。
 鉄道の完成を祝って、軍をねぎらうために各駅に慰安所が建てられ、各駅に待機するおよそ60人の兵に「利用券」が渡され、駅ごとに6人から7人の朝鮮人慰安婦が用意された。労賃が支給された一部の捕虜にも「利用券」を渡す案が提案されたが、彼らはそれを断り食事の改善を求めた。
 機関車の脇に「奉納趣旨」と書かれたものが置かれている。
 「泰緬鉄道建設の苦闘と戦争の悲惨を視つめ、戦後も黙々として泰緬路線の地域開発に活躍したC56型機関車九十輌の代表として31号機を奉納し、関係殉職者の慰霊と永久平和を祈念するものである」(泰緬鉄道関係部隊)
 一読すると、死者への哀悼の意を表しているかのようにもとれる。だが、その文言は真実を語っていない。捕虜虐待の真実を覆い隠すものであった。
 泰緬鉄道は、タイ、ビルマへと侵攻した日本軍によって築かれた「死の鉄道」であった。それが敷かれたことによって、日本軍はビルマ、さらにはインドへと侵略の手を広げた。そのインパール作戦で、食料が尽きた日本軍は現地民の食料を収奪した。それによって、インドベンガル地方の餓死者は、その年、百五十万人にも及んだことが歴史書に記されている。

映像ホール
 エスカレーターで二階展示室へ向かう。一階を眺め下ろす通路わきに、古色蒼然とした江戸末期の大砲が置かれている。通路を歩くと軍艦マーチが聞こえてきた。軍歌は「映像ホール」の入り口から流れていた。中に入り腰を下ろし、説明文を読む。
「日清、日露の大戦から大東亜戦争まで・・・。わが国近代史の戦争の歴史を当時の貴重な映像で再現し、東京裁判で歪められた歴史の真実に迫るドキュメント映画」。
 客席を見渡すと、若い家族づれ、老人夫婦、高校生らしい三、四人のグループを目にした、客の入りは半分ほどであった。
 会場が暗くなり、映画が始まると、タイトルのフレーズ「私たちは忘れない」をくりかえす声が耳をつんざくように響いた。力をこめた女の声であった。
 スクリーンに映る巨大な菊の紋章。それが染められた白地の幕が、拝殿中央で左右に開かれ、その下に、密集する参拝者の群れ、それをスクリーン一杯に「私たちは忘れない!」、「感謝と祈りと誇りを」の文字が覆う。続いて、曠野を行く兵隊、群がる中国人の子供にマントウを配る兵士の姿・・・。
映画はこのように語る。「中国側は不平等条約の改正を話し合いによって解決しようとするのでなく、野蛮な国民党の戦略と、それに煽動された民衆によって各地の日本人居留民が襲撃されたのでした」
 開戦がやむを得なかったと言っている。であるのに、「不平等条約」だとも言っている。その条約とは、一九一四年に日本国が中国政府に突きつけた条約で、日本の中国での権益の確立、強化を求める侵略計画の全てが二十一ヶ条にわたって書かれたものであった。それを、袁世凱政権は武力強圧によって受諾させられた。しかし、屈服させられたことに対する中国民衆の怒りは燎原の火のように広がった。
 映画は当時に触れて、次のように解説する。
「過激な反日運動の嵐は、満州にも及びました。満州には日本がさきの日露戦争で合法的に獲得した正当な権益のある多くの日本人、朝鮮人が住んでいましたが、止むことのない反日テロによって生命財産の危機に見舞われました。最後には満州から日本軍を追い出そうとする中国軍部の暗躍があったことは言うまでもありません」
 侵略の事実を覆い隠すまやかしである。日露戦争によって「合法的に獲得した権益のあった」という満州(東北三省)は、中国人が住む中国の領土ではなかったのか。

野 望
続いて、映画は次のように語る。「満州の南部に日本の関東軍が駐留していましたが、その数僅か一万人。満州南部で日本人、朝鮮人は、さまざまな迫害を受けましたが、関東軍は軍事行動を慎み、外交交渉での解決を目指していました。関東軍の軍刀は竹みつか、と日本人居留民から涙の抗議を受けましたが、関東軍は本国の命令がなければ動けません。しかし、堪忍袋の緒が切れる時が来ました」。
 さまざまな迫害を受けたのはどちらだったのか。これは、責めを他に帰す「まつろはざるをまつろはせる」という侵略の論理そのものである。
 映画は、満州国建国の趣旨と五族協和の賛美、その後の中国の内戦の激化と、反日抗戦の不当性を述べたあと盧溝橋事件について、このように説明する。
「昭和十二年七月七日、夜間演習中の日本軍に対して中国側から発砲があったのでした。(銃声が響く)わが国は事件の拡大を望まなかったのですが、事件が続発し、二十八日、日中間の本格的戦争が始まりました」
 事件の拡大を望まなかったというのは嘘である。一九三七年七月七日、小競り合いが盧溝橋をはさんで起きた後、現地関東軍と中国駐屯軍とのあいだで話し合いが成立し、現地解決が図られた。ところが、その日の夕刻、大本営と日本政府は現地での決着を無視して中国への派兵を閣議で決めた後、「華北派兵ニ関スル声明」を発表した。
「声明」は現地での経過を捻じ曲げ、「以上ノ事実ニ鑑ミ今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力抗日ナルコトモハヤ疑イノ余地ナシ」と決め付け、「ヨッテ政府ハ本日ノ閣議ニ於イテ重大決議ヲナシ、北支派兵ヲナシ、政府トシテ所要ノ措置ヲナスコトニ決セリ」と内外に発表した。盧溝橋事件を中国侵略拡大への好機とする野望の表れであった。

通州事件
映画はさらに、日本政府の「話し合いによる平和的解決」に背く中国側の動きとして「通州事件」を取り上げていた。
 「通州事件」は、盧溝橋事件後、日本軍が華北一帯で総攻撃を始めたさなかに起き、在留日本人と朝鮮一般人を含む二百人が殺傷されるという残酷な事件であった。映画は、その「通州事件」を盧溝橋事件後の戦線の拡大を合理化する口実としていた。だが、戦後明らかになった事件の真相は、次のようなものであった。
 一九三七年七月七日、日本政府が北支派兵を決定し、日中全面戦争へと戦火が拡大して間もなく、中国第二十九軍と交戦中であった関東軍飛行隊が、味方であった傀儡軍の「冀東保安隊」の基地を誤爆し多数の犠牲者を出した。
 映画の言う「通州事件」は自軍の誤爆を利用したものであった。それを日本国政府は危貨とし、「支那側ノ計画的武力抗日」事件だと偽って侵略戦争拡大のために利用したのだった。 当時、新聞各社は事件を大本営発表そのままに、号外を出して、「惨タル通州事件ノ真相、鬼畜モ及バヌ残虐!」などと反満抗日中国軍の仕業として大々的に報じた。その結果、世論は「膺懲支那」(支那を懲らしめよ)へといっそう流されていった。
 映画は終わりに、何人もの特攻隊兵士に心情を語らせていた。エンディングは、再び絶叫調の「私たちは忘れない」の繰り返しであった。小林よしのり著「新ゴーマニズム宣言スペシャル、」が、通州事件での死体累々の場面を描いている。映画は、それと寸分違わぬものであった。

                                      呪 縛
 映像ホールを出て「零戦」の置かれた一階ホールを眺め下ろす。意気込んだ女の声が耳奥に残っていた。一階に降りて茶房「結」で腰を下ろす。
 遺族だろうか、初老の夫婦が窓際のテーブルで、ガラス越しに境内を眺めながら会話を交わしている。どこからともなく聞こえる「海ゆかば」のメロデー。
 館内で書き記したノートを広げ、眼を通した。
 スクリーンで声を詰まらせて語っていた老人の顔が眼に浮かんだ。
「みんな靖国で会おうね、といって死んでいったのですよ。日本人でしたから、降服ということは知らなかったから・・・。ああ、ここで全員死ぬんだと思って、覚悟を決めましたよ」

「みんな靖国で会おうね、といって死んでいったのですよ。日本人でしたから、降服ということは知らなかったから・・・。ああ、ここで全員死ぬんだと思って、覚悟を決めましたよ」
 戦場での記憶は痛切なあまり語るに苦しく、戦友たちの死は戦後もなお、その人をさいなんだことだろう。ことばは悲哀をただよわせ、戦後も生き永らえた幸運を幸運として認めがたく思う苦悩をにじませていた。それは、生きて虜囚の辱めを受けずとされた戦陣訓に従わざるを得なかった人の悔恨ともとれた。戦場で戦う兵士たちを死へ至らしめたもの、それは、兵の命が「鴻毛より軽ろし」とされた戦陣訓であり、靖国の呪縛であった。

死の光景
 数年前の八月十五日、終戦記念日の夜、NHKが長時間視聴者参加番組を特集していた。そのなかで、かつての兵士が見た死の光景は次のようなものだった
。  「そりゃー、出征のときは帝国のため、天皇のためにとも思いましたよ。でもね、戦地で死ぬときはそんなものじゃなかった。みんな言ってましたよ。こんな惨めな死に方はしたくな
いなー、いやだなー、こんな死に方は、といって同級生たちは死んでいきましたよ・・・」  太平洋戦争戦死者のうち六割が餓死であったことを思えば、その多くの死は、靖国が「散華」などと美化し讃える死とは、およそ違ったものであっただろう。
 神風特攻隊の死も靖国で語られるものとは違っていた。戦後、戦没海軍の予備学生(特攻隊員)たちの手記「雲流るる果てに」が上梓された。そこに収められた短句(川柳)に吐露された彼らの心情の多くは、自らの命への限りない愛惜であり、死への怖れであった。それはまた、彼らの死を避けがたくした者への不信でもあった。
 その出撃前に詠んだ句に、
「生きるとは良いものと気付く三日前」
「父母恋し彼女恋しと雲に告げ」
「特攻へ新聞記者の美辞麗句」
「勝ち負けはわれらの知ったことでなし」
「痛かろういや痛くないと議論なり」

愛国班
 映像ホールで観た映画は、弔うべき多くの戦死者と、その死の責めを負うべき者たちとを、同じ「英霊」として讃えていた。そのことによって、同じ死でありながら、自国の無辜の人々の死と二千万人以上のアジア諸国民の死は黙殺されるのだ。
軍歌が流れ、戦争に「協力」した朝鮮や台湾の人々が「同胞」として、いかに「純粋」であったか、いかに力を尽くしたかが、現地の人々のつくられた声とともに語られる。ナレーションはこのように言っていた。
 「戦場も銃後も一億が火の玉となって戦いました。当時、日本とともにあった朝鮮と台湾の人々もまた、東南太平洋アジア島々の人々も一緒になって大東亜戦争を戦いました。そして台湾からも朝鮮からも、多くの若者が戦場に向かい、雄雄しく勇敢に戦ったのでした」。
 靖国は、植民地支配については語らず、朝鮮、台湾を「日本と共にあった」のだという。だから、他国の若者を死に追いやったことに後ろめたさは感じない。
 当時、朝鮮では、不足する日本兵を補うために、多くの青年たちが、祖国を奪った侵略国の天皇ために命を投げ出さなければならなかった。一九四三年に学徒動員、翌四十四年には徴兵制が敷かれ、それによって、二十万を超える朝鮮人青年が戦地へ送られ、多くの若者が戦死した。朝鮮人を総動員するために、朝鮮総督府は「国民精神総動員運動」を展開し、各村々につくられた部落連盟には、十軒をひとまとめにする「愛国班」が組織され、農機具と家畜の共同利用所、共同託児所、共同炊事所を設置し、物資はもとより、人的資源まで統制し、動員を強制した。そうした過酷な植民地支配のもとにあった朝鮮の人々の、肉体的、精神的苦痛は耐えがたいものであっただろう。
 映画は、次第に声を高ぶらせながら、クライマックスを迎えていた。
「私たちは忘れない.! 極東の小国に過ぎなかった日本が、その後、なぜ相次いで外国の大国と戦わなければならなかったかを」
「私たちは忘れない.! 祖国から遠く離れた異国の地で、未だ収集されないまま、将兵たちの遺骨が海や山で埋もれていることを」
「私たちは忘れない.! 今日の平和と繁栄の日本の礎となってくれた英霊たちへの感謝と祈りを」
「そして、私たちは忘れない.! 先人が築いた日本の文化と誇りを」・・・・・。

犠 牲
 茶房「結」は売店と並ぶ一階ホールの一遇にあった。老夫婦や若い家族づれの客が、純白のシーツが麗々しく被された椅子に腰を下ろし、ガラス越しに拝殿の方を見やりながら、小声で会話を交わしている。
メニューに、「海軍コーヒー」「海軍カレー」「古代米のちまき」など。哀調を帯びた軍歌のメロディーが流れ、茶房は死者への鎮魂を誘うかのように静かだ。
ガラス越しに桜の老樹に目を向ける。生い茂る葉が曇天の薄日が差す下で、砂利の敷かれた境内を暗くしている。今しがた見た映画のたたみかける声が耳元から離れない。
「戦わざるを得なかった戦争であった。そして、その戦争を戦った英霊たちは、今日の平和と繁栄日本の礎となった。だから彼ら英霊たちへの感謝と祈りを、私たちは忘れてはならない・・・」
 戦後の平和と繁栄は、そのような戦争を二度と繰り返すまいと願う人々の勤勉と努力によるものではなかったのか。戦死者たちも戦後の社会でともに働き、平和となった祖国で暮らすべきであった。生き残った人々がそうしたように。

靖国街道
 茶房から泰緬鉄道の機関車を眺めていると、以前、画集で見た光景が眼に浮かんだ。 それは、雨水があふれる街道を、現地民に導かれる象とともに進軍する兵たちの光景であった。そのインパール作戦に従った三個師団六万五千の兵のうち、戦死者あるいは病死者は三万七千人に及んだ。
 インパール作戦は全インドの支配を目的とする無謀な作戦であった。作戦上必要な武器弾薬と食糧は、敵軍が遁走する際に遺棄するものを自軍のものに出来るとされていた。兵站をともなわない作戦は、当然の結果として、惨めな失敗に終わった。携行した僅か三週間分の食糧は尽き果て、兵たちは飢え、現地民の食糧の略奪に頼るしかなかった。やがて三個師団は英印軍の猛攻の前に総崩れとなった。その、コヒマ、インパールの前線からビルマ南部に敗走する街道には、日本兵の死体が累々と横たわっていた。それは、世界一の豪雨地帯として知られるアラカン山脈の、雨季の中での凄惨な退却戦であった。 その街道を、兵たちは「靖国街道」と呼び、「骸骨街道」と呼んだ。それに込められたものは、兵たちの無念と、そのような無謀な作戦に従わざるを得なかった自嘲と、おびただしい戦友たちの死を見た者の怨念ではなかったのだろうか。

武人のこころ
 「図録」を手に、展示室@に入る。「武人のこころ」と書かれた文字が目に入る。その解説に、
「建国の昔より東海の美しい列島に、わが国は独自の文化を育んできた。しかし、この独立は当然にしてあったのではない。大八洲と称されるこの国土には歴史上いくつもの戦いがあった。世界史の大きな潮流の中で、必死にこの国を護り支えてきた先人たちがいた。この自存独立が危うくなったとき、常に矛を取り第一線に赴いたつわものたちがいた。つわものたちは国家の命ずるところに殉じた。国を鎮め、命を賭けて国を護り、家を護り、近代日本の礎となった将兵たちのいさおしを讃え、霊を慰め、安らかに鎮まるのを祈るところが靖国神社である。その聖なるところに遊就館は建つ」。 解説は古代から近代へとひとっ飛びし、戦士たちの武勲を讃えていた。  次いで、解説は遊就館の命名にふれたあと、「先人の魂にふれ、その志について学ぶことは現代に生きる日本人の生き方である」と説諭する。戦前の「国史」教科書の再現である。そこには現代に生きる日本人の生き方までが語られているではないか。
 眼を次の展示に移す。間接照明でおごそかに浮き出る「御歌」。昭和十七年の新春歌合会での天皇の御製、「峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり」。 次に、「海ゆかばみづくかばね山ゆかば草むすかばね大君の辺こそ死なめかへりみはせじ」、大友家持の作だが、信時潔が作曲し日本初の正式軍歌となった句である。それが、太平洋戦争初期の戦果と、その後の玉砕をラジオが報じるときのテーマ曲として流された。それと、宗良親王の「君がため世のため何か惜しからむすててかひある命なりせば」。
古代と近代とが混然一体となり、いにしえのいくさから侵略戦争に至るまでが天皇のためのものであったことが謳われている。

神風意識
 続いてAのコーナー。ガラスケースの中の抜身の元帥刀。甲冑、刀剣から銃までの展示品が並べられている。
 元の来襲を迎え撃った北条時宗についての一文に、「勝因の一つとなった大風は『神風』と呼ばれ、日本民族の神風意識を高めた」とある。
 だが、その「神風意識」こそ忌むべきであった。国民は、神国日本は負けるはずはないと信じさせられ、太平洋戦争の緒戦での勝利に小旗を振って祝賀した。だが戦況はその後わずかにして絶望的となり、特攻隊に「神風」の名が冠せられ、インパールでは、敵軍の武器弾薬、果ては食糧までが「神だのみ」となった。その神風によって戦争指導者は、同胞の命に盲目となり、戦局を見誤り神国を破局へと導いた。

崇敬の念
 Bの展示が明治維新。副題に「愛国の志士たちがみた近代日本の夜明け」。吉田松陰命坐像、坂本竜馬命肖像、橋本左内命坐像が置かれている。天皇への忠勤度で選ばれた志士たちである。西郷隆盛は除かれている。彼は賊軍の側であった。展示コーナーに、反射路、銃隊式教練、騎兵操練などの絵巻物を目にする。
 続いてCの展示、「靖国神社の創祀」。
 中央に昭和大修業による保存部材、明治二年東京招魂社創建から一八七九年靖国神社と改称されるまでの事蹟。一八八二年、軍人勅諭が出された翌月の遊就館オープン時の記念写真を目にする。その展示室の奥に「皇室と靖国神社」の特別陳列室があり、「軍人勅諭」の小冊子と「教育勅語」が並べられていた。
 「図録」に、「本館建物の最奥に位置して格式高く・・・。歴代天皇の太刀や軍服など明治以来歴代天皇が靖国を厚遇し、神社はそれに応え、崇敬の念を深めた」とあった。 ここを訪れた人は、そのような戦いによってつづられた尊い「歴史の真実」を知り、その「志」を学ばねばならないのだ。訓話はさらに続く。

征 韓
 展示は日清戦争へ。標題は「世界に通用する軍隊を作れ」である。
 図録の解説に、「明治二十七年、東光党の乱が勃発して清国軍が朝鮮南部(牙山)に出兵、日本も大島混成旅団を派遣した。現地は俄然緊迫し遂に豊島沖の開戦と成歓牙山の陸戦が勃発した。(中略)日本軍は第一軍が平城の戦いで清国軍を朝鮮半島から一掃、連合艦隊は黄海の開戦で清国海軍(北洋水師)を撃破して制海権を獲得した」とあった。これだけでは、日本の軍隊が韓国に出兵した理由が分からない。
 当時、日本帝国は鎮台を師団に変え、陸海軍を整備し国民皆兵制を敷くなど、初めての対外戦争に向けて準備を整えていた。折しも一八九四年の春、朝鮮で官吏の腐敗と重税に反発する農民の蜂起が起る。鎮圧に手を焼いた朝鮮政府は清国に援助を求めた。それを日本帝国は不服として派兵に踏み切った。日本軍の出兵は韓国の征服を目的とする内政干渉であり、「征韓論」の実行であった。
その後、朝鮮に駐屯した日本軍は朝鮮王宮を占拠し、王と王妃閔妃(のちに日本軍によって惨殺される)を拘禁し、朝鮮に対し、清国依存からの離脱を迫る。時を移さず、日本艦隊は黄海で清国海軍を攻撃する。日清戦争の火蓋が切られた。
朝鮮に進駐した日本軍は陸路、遼東半島に攻め入り、清国軍は破れる。その時、日本軍は、激戦地となった旅順で一万人ともいわれる民間人の虐殺を引き起こす。それが後に国際世論から激しい非難を浴びた「旅順虐殺事件」であった。

模範兵
 展示された中に、「任務必遂の精神、木口小平命」の展示物があった。説明文に、「木口小平は喉に銃弾を受けたが、伝令の喇叭を口から離すことなく吹き続け、ついに絶命した」とあり、傍らに、修身の教科書が開いて置かれている。
「キグチコヘイハテキノタマニアタリマシタガシンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」。学童向け戦意高揚の美談である。真偽のほどは措くとして、木口小平は当時、誰もが 知る忠君愛国の、命よりもラッパを大切にする模範兵であった。
 その他、北蓮蔵画とやらの絵があり、説明文に、「三等水兵三浦虎次郎は、旗艦『松島』で重傷を負ったが、朦朧とする意識の中で、介抱する上官に対し、敵艦『定遠』の最期をしきりとたずねつつ絶命した」と書かれている。
 これも美談。敵の砲弾に倒れ、死に赴こうとする水兵の肩に上官が手を添えて、前方、海中に沈み行く敵艦を指さす光景が描かれている。戦意高揚の絵である。上官は息絶えようとする水兵をすでに英霊のように見ている。

台湾侵略
 日本軍は日清戦争で朝鮮の支配とともに台湾の略取をも狙った。その台湾を舞台とする絵が懸けられている。
馬上から敵兵を切りつけ、倒れた兵を馬蹄で蹴散らす馬上の日本兵。それが「台湾膨湖島馬公城占領の図」である。背景に、炎上する朱塗りの社殿が描かれ、戦場が台湾であることを示している。
 やがて日清戦争が帝国日本の勝利で終わると、敗軍の将、李鴻章との間で講和が結ばれた。その条約によって日本は、朝鮮からの清国軍の撤退を約束させ、中国の領土であった遼東半島、台湾、膨湖諸島を割譲させる。併せて多額の賠償金の支払いを清国に要求し、沙市、重慶、蘇州、杭州の開港と日本汽船の入港を認めさせた。
 だが、ロシア、フランス、ドイツの列強三国は遼東半島の割譲に反対する。この「三国干渉」に屈した日本は、一度奪い取った遼東半島を清国に返還し、その代償として、さらに三千万テールの銀を清国に支払わせた。
 朝鮮は帝国日本の支配下となった。朝鮮の人々は、その後の朝鮮併合による宗主国日本の呵責ない皇民化政策のもとで、屈辱の日々を暮らすこととなった。その植民地支配は第二次世界大戦終結に到るまで続くことになる。
しかし、こうした史実は遊就館では語られていない。真実は隠され、侵略の正当化と忠君の兵たちの逸話によって美化されている。

「臥薪嘗胆」
 帝国日本にとって無念であったのは、露独仏の三国干渉によって遼東半島の領有が妨げられたことであった。一旦手にした遼東半島を手放さざるを得なかった無念は、ロシアから受けた屈辱として語られ、国民に臥薪嘗胆の念を抱かせることになる。展示室E「日清戦争」のコーナーでは、その「臥薪嘗胆」の四文字が壁にかけられ、それが、次のように強調される。
「三国干渉への屈服は、日本の実力を改めて思い起こさせた。国民はロシアの介入に激怒し、あらゆる苦難を忍んでこの屈辱を晴らすという決意を持つに到った。『臥薪嘗胆』が国民の合言葉となった。そして、ロシアの旅順、大連の租借と朝鮮半島への南下は、改めて国民に日露戦争を覚悟させた」。
取りそこなった領土を取り返す、それが、次なる日露戦争の大義名分であった。その強奪の論理に絡めとられた日本国民の心情は熱狂であったことがうかがえる。その熱狂によって、国民は日露戦争へと導かれ、その「勝利」を跳躍台として、やがて日中戦争、アジア太平洋戦争の無謀へと駆り立てられていった。

激戦地
 「アジアの強国から世界の大国へ」、それが遊就館展示室F「日露戦争」のタイトルであった。展示室に入ると、旅順軍港の全景写真が懸けられていた。それは、私が数年前の五月に現地を訪れたとき一望した風景であった。
 その日、空は晴れわたり、二百三高地の山肌にまぶしい日の光が射していた。かつての軍港の入り江が、小波の立つ海面を光らせ、左右の岬が湾を包んで裾を延ばし、その先がすぼまった入り江の前方に黄海が広がっていた。を訪れたとき一望した風景であった。 湾を見下ろす丘の頂上に、往時のロシア軍榴弾砲が二門据えられていた。初老の中国人ガイドが入り江の前方を指さし、日本海軍はロシアの艦船が湾へ侵入するのを防ぐために自軍の艦船を沈めたのだと説明していた。
 日露戦争は、満州、朝鮮の権益をめぐって日本とロシアが他国の領土と領海で戦った戦争であった。一九〇四年二月四日、日本艦隊は旅順沖でロシア艦隊を攻撃し、その翌日、仁川港でロシアの軍艦を撃沈する。宣戦布告なしの先制攻撃であった。
 その後、戦場は旅順から奉天(現在の瀋陽)へと拡大し、帝国日本は七年分の国家予算の戦費を投じ、おびただしい戦死者を出しつつも、当時、ツアーリ体制崩壊の危機を迎え、戦争継続が困難となったロシア軍に辛うじて勝利する。
 その勝利によって、日本はロシアに朝鮮の支配と権益を認めさせ、関東州と長春旅順間の鉄道を譲渡させ、ロシアの領土であった樺太の南半分を自国の領土とし、中国における鉄道守備隊の駐留を認めさせた。後の関東軍のはしりであった。

偽 造
 遊就館ではこの日露戦争が日本を世界の大国へと押し上げたものとして謳歌されている。図録の「日露戦争概略」に、「この日露戦争の勝利は、長年ロシアの暴圧に苦しめられたフィたアジア諸民族に希望と自信を与え、その民族の独立運動を促した」と書かれていた。 日本が東洋の小国と見做されていた当時、列強ロシアの敗北は西欧諸国に意外の感を与えるとともに、ロシアの侵入に不安と反発を抱く中国や朝鮮の人々に、同じ東洋の国日本の勝利は歓迎され、日本に対する期待も高まった。だが、その期待は、侵略国日本の姿があらわになるにつれ打ち砕かれていく。侵略された国の人々は、やがて帝国日本の支配と暴圧のもとで今までにない不運を味わうこととなった。
 図録に書かれた「民族の独立運動を促した」の記述は史実の偽造である。日本の侵略によって、それらの国は過酷な重圧のもとに置かれた。だが、朝鮮、中国で、侵略国日本の支配に抗して民族の独立を求めるたたかいは、その後止むことはなかった。

軍 神
 F展示コーナーに、「閉塞船、福井丸指揮官海軍中佐、廣瀬武夫(旅順港にて戦死)の像」を目にする。私が旅順で中国人ガイドから聞いた話はこの作戦のことであった。
図録の説明に、その廣瀬中佐が決死隊として「福井丸」を指揮して出撃したことが書かれている。「激しいロシア軍の放火の中で、湾内に船を沈め、離脱しようとしたとき、人杉野兵曹長が部下の一人がいないのに気付き、再び、沈みゆく船内に戻り、声を限りに叫ぶこと三度。ボートに戻ったところ、敵の砲弾を受けて旅順港外にて戦死を遂げた・・・」。名調子の美談である。実話かどうか疑わしい。
 図録に、同じく軍神橘中佐の銅像(模型)。軍刀の柄に右手をかけ、左手を腰にあてがい前方を睥睨する顎の張った軍人像。説明文に、「大隊長橘周太少佐は、清国遼陽付近の困難な戦闘の最中に銃弾を受け負傷。部下の軍曹からの撤退の勧めに、かつて東宮侍従武官を務めた橘少佐は『今日は自分がおつかえした皇太子殿下(後の大正天皇)の御誕生日であり、このめでたい日に戦死することは本望である』と語り、日本を望む東方を遥拝し絶命した」とある。逸話に「皇太子殿下」が出てくるあたり、軍神の最たるものである。
 壁面を使った大画面にバルチック艦隊壊滅場面の記録映画が写されていた。そのナレーションが、「インド洋から対馬海峡を北上するバルチック艦隊を迎え撃つ連合艦隊は、敵艦に横一列の横腹を見せたかと思うと、急速度で隊列を縦一列に向きを変え、敵艦に接近し、いっせいに砲弾を浴びせた。敵の目を欺く策であった」と勇ましい。
  日露戦争が勝利すると、国民は大人も子供も欣喜雀躍したのだという。人々は祝賀の列を連ね、上野公園には巨大な凱旋門が建てられた。その凱旋門には「親和、忠実、融和、平和、名誉、勝利」の文字が刻まれ、HUMANITY 、JASTICEと記されていたという。
図録に、「すなわち、当時日露戦争とそ
の勝利の意味がどのようにとられていたかを知ることができる」。いかにも誇らしげだ。  誰もが知る日露戦争の指揮官乃木将軍の指揮刀と大山元帥の軍服、徽章、東郷元帥の軍服が、一階特別展「日露戦争一〇〇年展」に展示されていた。その案内カタログに、 「日露戦争百年に当たり、靖国神社に鎮まる日露戦争関係の英霊八万八千四百二十九柱、並びに先人たちの偉勲を顕彰して、その歴史的意義を明らかにし、ひいては我が国近代史の真実、日本のあるべき姿はいかなるものなのかを考える一つの契機としていただけますよう御案内申し上 げます」。だが、靖国のいう「日本のあるべき姿」は、その後のアジア太平洋戦争の敗北によって露と消えることになる。

生命線

 来館者は展示室の順路に沿って二階から一階へと向かう。途中、通路の片隅に置かれたテレビ画面に、当時の戦況を報じるニュースフイルムが繰り返し映されていた。二人の老人がテレビの前の椅子に肩を並べて座り画面に見入っている。
二階の展示室Gは「日露戦争から満州事変へ」であった。その満州事変に到る明治から昭和にかけての二十数年の間には、第一次世界大戦とシベリア出兵がはさまれている。図録 「英国は同盟関係の日本に参戦を要望、日本軍はドイツ領の青島(チンタオ)および南洋諸島を攻略、次いで連合国の要望でインド洋および地中海へ艦船を派遣し、シベリアへも出兵したが陸軍部隊の欧州派遣は拒否した」とあった。欧州派兵を断わったのは実利がなかったからであり、遠くで戦われる戦争を利用したいがためであった。
 一九一八年、日本軍は三回にわたって、大戦で防備が手薄となったドイツの租借地であった青島(チンタオ)に出兵し、総攻撃によって山東省の省都済南市を壊滅させた。その暴虐ぶりは一気に「排日」の気運を広げることになる。
 帝国日本は、その時、満州および東部内蒙古への侵略を図り、日本の「生命線」は広げられつつあった。日本軍はその翌年、意のままにならないと見るや、満州軍閥の張作霖を爆殺する。その所業は、列強諸国が租借地の権益を得ていた当時にあってさえ、際立って野蛮であった。
 シベリア出兵もまた野望によるものであった。出兵した兵士の数七万五千、他の列強のそれを凌駕した。日本帝国はその大軍をもって、他国の干渉軍が引き揚げた後も駐兵を続けた。あわよくば沿海州とシベリアを手に入れようとしたのだった。その駐兵四年余りに要した戦費は九億円(当時)にのぼり、そのつけは国民の肩に重くのしかかった。

尼港事件
 展示室にドイツ領青島占領とシベリア出兵当時の地図が掛けられている。
 当時、朝鮮、台湾、樺太南半分は、すでに日本の領土であったから、日本本土と同じ朱色で塗られ、日本が出兵したソ連沿海州と、その西に位置する中国領土のハルビン、チチハル、満州里(マンチュウリ)、さらにソ連領チタ、バイカル湖畔イルクーツクに到る東支鉄道と、一部シベリア鉄道に沿う一帯が、日本の「攻略地域」として同じ朱色の斜線で示されている。
 その斜線で示されたソ連沿海州北端の都市「ニコライエフスク」が板書(黒地に白抜き)され、矢印が示されている。「尼港事件」に目を向けさせたいと見える。
 図録の解説に、「大正九年(一九二〇年)その地(日本名、尼港)で、日本軍陸海軍部隊三五〇名と日本人一般居留民三八〇名が四千人のパルチザンに包囲され、戦闘の末、そのほとんどが殺害された」とあり、自刃した領事官と、その家族の写真が載せられている。
 当時、すでに帝国日本はソ連沿海州に軍人と民間人が居住する港を持っていた。それが現地パルチザンの標的とされていたのだった。図録は「パルチザンは市街地を焼き払い、一般市民の大半を殺害して逃走した」と記している。ソ連沿海州の領有と権益の確保を狙う帝国日本の盾とされた軍民の悲劇であろう。
「尼港事件」はシベリア派兵を正当化する靖国の牽強付会ととれる。だが、大軍を派兵したものの、沿海州の略取は失敗した。

此度ハ致シ方ナキ
第一次世界大戦は、日本を含む連合国側の勝利に終わった。図録に「戦争の規模と損害は甚大で両軍の死傷者は三千七百五十万人に達した」と書かれている。
 そのような未曾有の惨禍によって、その後、世界は戦争の違法化へと進んだ。国際連盟規約に「不戦条約」が記され、中国の主権、独立、領土的行政的保全の尊重を明記した「中国に関する九ヶ国条約」が締結され、日本もその締結国に加わった。
 だが、大戦の被害が西欧諸国に比べてわずかであった帝国日本の膨張欲は、止まるところを知らず、国際連盟規約「不戦条約」も「中国に関する九か国条約」も無視し、派兵は、相手国に責めあるものとして喧伝され、守るべき領土は台湾、朝鮮、南樺太などに加えて満州全土へと拡大していった。
 図録中「満州事変」はこのように書かれている。
「昭和六年九月十八日、奉天郊外柳条溝付近の鉄道爆破事件をきっかけに関東軍が満州全域の軍事占領を図った事件・・・」。関東軍の所業とだけ言っている。だが当時、政府と軍部が関東軍の謀略を見逃したことは記されていない。
図録は、「日本は日露戦勝で権益を有していたが、『滅満興漢』を旗印に新国家中華民国を建国した熱気は既存の条約を無視した過激な国権回復運動となって満州に波及した」と、武力侵略の原因を相手側のせいにして、やむを得なかったと言っている。
 中国が「無視した」とする「既存の条約」とは、日本が奪った中国の権益の譲渡と満州の植民地化の受け入れを、武力を背景として約束させた二十一ヶ条条約を指す。その屈辱的条約は中国民衆の怒りに火をつけ、それに反対する運動は中国全土に広がった。遊就館は、その中国国民の「国権回復運動」を過激で不当なものとして非難している。
天皇は、その関東軍の謀略による満州事変を、直ちに「此度ハ致シ方ナキ」と述べて、開戦を裁可する。続いて翌年一月には、関東軍を讃える勅語を下す。
 「朕深ク忠烈ヲ嘉(よみ)ス。汝将兵益々堅忍自重、以ッテ東洋平和ノ基礎ヲ確立シ、朕ガ信椅(しんい)ニ対(こた)エンコトヲ期セヨ」。
 関東軍を励まし、中国東北三省侵攻の許可を意味するものである。
 天皇が讃えたとされる、軍人たちが遺した日記や彼らが着用した軍帽、軍服が展示されている。
 図録に、「満州における張学良政権の露骨な排日政策と日本政府の対中宥和外交への不満は満州、特に関東軍内部で鬱積していた。事変後、関東軍は清国最後の皇帝溥儀を擁して満州国を建国した。(米国政府は国内の反対を押えて積極的に介入し、日本孤立化の外交戦略を展開した)」。後半( )内の文言は、その後の日米開戦の伏線ととれる。

御 意
 やがて一九三十七年、日中全面戦争の火蓋が切られる。だが火の手はそれ以前に上海に広がっていた。  「昭和七年(一九三十二年)二月二十二日払暁、混成第二十四旅団礎大隊が、上海廟巷鎮の堅塁を攻撃するに際して、配属工兵を以って鉄条網破壊攻撃に当った。作江、北川、江下の三伍長(当時一等兵)は破壊筒に点火して、これを抱いて鉄条網に突入、自爆粉砕した。これによって味方軍は突撃口を得て進撃し廟巷鎮の一角を占領することができた」(図録)
 その武勲を讃える「肉弾三勇士突撃」のレリーフが飾られていた。その並びに「白川大将血染めのワイシャツ」と、同じ白川大将揮毫の「薬莢花瓶」が置かれ、薬莢は花挿し風につぶしてあった。その花瓶の胴に「天壌無窮、昭和戌之冬、陸軍大臣白川義則書」の文字が刻まれている。説明文に「白川義則命、昭和七年五月二十六日、中国上海兵站病院にて公務死」。
 彼は上海での天長節祝賀会の席で投ぜられた爆弾によって斃れたのだが、それを、「後に昭和天皇が『をとめらの雛まつる日に戦をばとどめしいさを思い出にけり』の御製を遺族に賜った」とあった。天皇は、己が誕生祝賀の席で命を落とした軍神の忠烈をふと思い浮かべたらしかった。その死は天皇に奉げられている。

御羽車
 小部屋に「御羽車(おはぐるま)」が置かれていた。図録にはこのように書かれている。 「境内の一隅に設けられた招魂齋庭では戦死者の招魂式が行われた。新しく合祀される戦死者の名簿が御羽車に泰安され、そこに記された戦死者の英霊を招くのである。やがて月明に照らされた御羽車はご本殿へと向かう」御羽車
 日中戦争と太平洋戦争期、靖国神社では、臨時大祭として数多くの戦死者を合祀する招魂式が繰り返し執り行われた。「御羽車」は、その際に死者の霊を靖国に奉納するための祭具である。
 「招魂式」は遺族だけが列席を許される、ありがたい儀式であった。その時、遺族たちは国費で全国から靖国に招かれ、参道脇に敷かれた茣蓙の上に座し、天皇がその前を通り過ぎる間、叩頭し眼だけを前方に向けて、天皇を間近に見ることができた。御羽車 ガラスケースの中に、遺族への招待状、東京市電優待乗車券、遺族徽章、遊就館参館券が置かれている。招魂の儀に列席した遺族たちは、政府の官吏に案内されて東京見物をさせてもらい、記念写真に収まった後、誉れ高き遺族として、それぞれの在所へと帰っていった。
 その招魂式の情景を、図録は次のように書いている。
「戦没者が新たに合祀されるときは、まず境内の招魂齋庭に新造された幄舎に、氏名の謹書された霊璽簿(れいじぼ)を納めた御羽車を据え、御霊をまねく招魂の式が行われた。この後すべての燈火を消した浄闇の中、御羽車をご本殿に奉還申し上げた。境内をみたす数万人の遺族の悲しみのうちに行われた招魂式は祖国に殉じた英霊が、とこしえに鎮まる靖国の宮に帰る荘厳な儀式であった。その模様は昭和八年から終戦まで日本放送協会によってラジオで実況中継された。日本全土にひとしく英霊を痛む聖なる時が流れたのである」

戦場に斃るるの幸福
 それがどのように行われたのか。(図録の「招魂式次第」から)
― 午後四時、霊璽簿(れいじぼ)を奉安した御羽車が招魂齋庭に据えられ、参列の遺族が招魂齋庭から拝殿にいたる道筋に整然と座して祭儀の始まりを待つ。
ー 午後八時、宮内省楽師の奏する和琴の音にのせて神職が警蹕(けいひつ)を行い宮司が招魂詞を奏上する。
― このとき霊璽簿にその名を記された戦死者の魂が招き寄せられる。
― 次に供物をささげ宮司が祝詞を奏上し、武官の祭典委員長をはじめ参列各官、宮司以下神職が拝礼し、儀仗兵がラッパを吹奏する。
― こののち宮司は齋庭を離れ本殿へ向かう。内陣の御扉を開き、すでに合祀された神霊にたいし新たに英霊をお迎え申し上げる旨を奏上する。
― 再び宮司は招魂齋庭に戻り、御羽車に鎮まる御霊にたいし、これより御本殿に奉還申し上げる旨を奏上する。 ― 境内および神社周辺のすべての燈火が消されると、警蹕(けいひつ)の声を合図に軍楽隊が「水漬く屍」の曲を演奏し始める。
― 憲兵は前駆となり、先導の神職が道筋を祓い清め、そのあとに軍楽隊が行進。警蹕の神職、陸海軍省の係官、祭典委員長の順にすすんで、若い神職たちに担がれた御羽車を先導する。
― 御羽車は儀仗兵の栄誉礼を受けて招魂齋庭を発進。宮司以下の神職儀仗兵および参列の陸海軍人たちがこれにつき従う。
― やがて御羽車は境内をうずめる数万人の遺族のあいだを静かに遷幸し、本殿の外陣に到達する。ここで宮司は御羽車から霊璽簿を捧持して内陣に参入。御神座の間近に奏安して奉還の儀が終わる。
― 再び明かりが灯されると、新たに神鎮まり給う神霊のために供物がささげられ、宮司が祝詞を奏上。
― 参列各官の拝礼があって供物を下げる撤饌(てっせん)の儀ののち、内陣の御扉を閉じて、夜間に行われる招魂式の祭儀が終わる。
 この「招魂式次第」を読むと、その時の情景が目に浮かぶ。月明かりの中に染み渡る悲しげな楽の音、参道を車軸をきしませて進む御羽車、座して境内を埋め尽くす、沈黙し、すすり泣く千を越える遺族たち・・・。悲しみが満ちる静寂が感じられる。
 遺族たちは、そのとき何を思ったのだろうか。天子さまが息子や夫におまいりしてくださり、褒めてくださることに感謝し、至福の感に打たれたのだろうか。それは、「戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめる」ために、天皇がおこなう、悲しみを慰撫する儀式であった。
 国家は、兵たちの死を「名誉の死」として顕彰しなければならなかった。そのために、国家は遺族たちを靖国に呼び寄せ、参道に彼らをはべらせ、つかの間、君主にまみえさせることで、肉親たちを悲しみから免れさせようとした。彼ら、親兄弟、妻たちもまた、靖国の呪縛のもとにあったのだ。帝国日本が、戦死者をそのように顕彰し続けたのは、忠良な兵を絶やさないためであった。
 英霊たちは増え続け、「招魂式」は途絶えることがなかった。銃後にあった人々は、敗戦に到るまで、ラジオから流れる意味不明の祝詞(のりと)と、沈うつな楽の音と、それを伝える重々しげな声に幾度となく耳を傾けただろう。
*霊璽簿〉「霊璽」は天皇の印を敬って言う語。
〈警蹕〉 天皇の出御、陪膳、行幸などの際に先を払うために声をかけること。また、その声。「蹕」は一般人の通行を一時とどめ、貴人の行列を通す意。昔、天使のお出ましや、食事を差し上げるときなどに「おし、おし」(「静かに」の意)といって一般人に注意を与えたこと。
〈撤饌〉神前の供物を下げること(大辞林による)

壮 挙
 二階通路わきに置かれたテレビに、戦地の模様を伝える当時のニュースフイルムが映されていた。高ぶったアナウンサーの声が歩く人の足を止めている。画面に「支那事変総攻撃」の文字、行軍する兵士、匍匐前進し銃口を構える兵たちの姿が映されている。
 一九三七年七月七日深更、盧溝橋をはさんで日中戦争の火蓋が切られ、戦火は瞬く間に中国の大都市へと燃え広がった。画面の地図に書かれた「攻略目標」の都市名に次々と砲弾のマークが記されていく。上海、杭州、南京、重慶・・・。
 攻略は空爆によって開始された。蒋介石軍の集結する重慶への爆撃は、当時、世界初といわれた大都市への大規模無差別爆撃であった。それによる犠牲者は東京大空襲を超えたとも言われている。それを伝えるニュースが「壮挙に次ぐ壮挙」「暴戻支那への膺懲」と声を高ぶらせている。

暴支膺懲
 展示は、「支那事変」が「大東亜戦争へとつながるレール」であったと解説する。 十五年戦争は一九三一年(昭和六年)の柳条湖事件に端を発し、その後の中国東北部の侵略から日中全面戦争、一九四一年の対米英戦へとつながった。それは、天皇制ファシズム体制の下で「大東亜共栄圏」を目指す日本帝国の壮大な侵略戦争であり、その連鎖は止まることのない侵略の野望によって貫かれていた。  支那事変を図録はこのように解説する。
「昭和八年(一九三三年)の塘沽協定によって好転した日中関係は、一〇年八月の中国共産党の八・一宣言以来、テロが続発して再び悪化した。翌十一年十二月の西安事件で、反共の蒋介石が共産党との提携に踏み切ると、反日行動は一層激しくなった。盧溝橋の小さな事件が、中国正規軍による日本軍への不法攻撃、そして日本軍の反撃で、北支那全域を戦場とする北支事変となった背景には、日中和平を拒否する中国側の意思があった。(以下略)」
 図録は、「(事変は)中国正規軍による日本軍への不法攻撃」から始まったとし、その背景に「日中和平を拒否する中国側の意志があった」と強弁する。
侵略戦争は「暴虐」な敵国民を懲らしめること(暴支膺懲)が大義であったから、殺戮は当然のことであり、しかも皇軍の兵士が、捕虜は保護すべきという国際条約上の義務に関して無知であったことから、民衆のみならず、捕虜の殺戮をも許す原因となった。
続いて遊就館は、日中戦争の発端となった盧溝橋事件について、「不拡大方針の日本軍の命令」なる参謀総長手書きの電文を展示し、現地の軍に対して戦争の拡大を禁じたかのようなことを言っている。だが、真実は以下のようなものであった。 「盧溝橋事件は日中全面戦争の発端となった事件。1937年7月7日午後10時40分ごろ、北平(現北京)の西南、宛平県城盧溝橋付近、永定河左岸で日本軍が演習中、中国軍と交戦した。11日現地で停戦協定が結ばれたが、同じ日、近衛文麿内閣は陸軍の提案を受け、“重大決意”をもって華北への派兵を決定し、30日には盧溝橋・北平・天津を軍事占領した」(社会科学総合辞典)。とすると、その後、近衛首相は「蒋介石は相手にせず」と言っているのだから、停戦協定を無視したとみるのが正しい。
続いて展示パネルは「盧溝橋事件が北支全域のたたかいとなり、八月に第二次上海事変が勃発すると、蒋介石は総動員を下令して国共合作に踏み切り、日本も従来の不拡大方針を放棄した」と、やむを得ず拡大方針に転換したのだと自己弁護している。だが、戦線拡大の原因を国共合作に求めるのは事実の転倒である。国共合作は侵略戦争の原因ではなく結果であり、侵略国軍と戦う中国としては必要とされた戦略であった

隠 蔽
 戦争は「北支作戦、平津掃討作戦、南京攻略作戦へと拡大した」と図録は記している。戦線は拡大し、続いて南京大虐殺を引き起こす。その「南京攻略作戦」を、図録はこのように解説する。
 「中国の戦争意志を挫折させる目的で首都南京を包囲攻略した作戦。日本軍の開城勧告を拒否した防衛司令官唐命智が、部隊に固守を命じて自ら逃走したため、戦闘が始まると、指揮官を失った将兵は潰走または投降して壊滅。南京城は十二月一三日に陥落した」。
 ここでも当然、自らの残虐行為には触れていない。相手側司令官の逃走、将兵の遁走、投降だけを言っている。ではなぜ、投降した敵兵を大量殺戮したのか。
中国の抗戦意欲をくじくための首都(当時は南京が首都)の掃討作戦は、捕虜と民間人合せて三十万人(中国側の発表、東京裁判では約20万人)であった。当時、西欧のメデイアは殺戮と略奪、強姦の巷と化した現地から、それを生々しく伝えた。だが、日本の新聞は大本営発表そのままに、真実を伝えなかった。
 図録に当時の「東京朝日新聞」(十二月二十日付)の記事が載せられている。
 見出しが「平和甦る南京、皇軍を迎えて歓喜沸く」、数枚の写真は「市内で買い物をする皇軍の兵」や「皇軍に保護される避難民の群れ」、「皇軍入城に安堵して畑を耕す農民たち」といった作為による写真である。
 同じ展示室に、「張鼓峰事件」と「ノモンハン事件」があった。ノモンハンでは一個師団がほぼ壊滅したことが後に明らかとなっている。このふたつの「事件」はソ連軍に大敗した事件であった。だが敗北の事実には触れていない。侵略戦争の「大義」のためには敗北と虐殺は隠蔽しなければならなかった。

合祀祭神
 靖国神社合祀者の多くは十五年戦争の戦死者であった。「合祀祭神録」によれば、戦死者合計246万6532人、そのうち太平洋戦争(第二次世界大戦)で合祀されたのは213万3915人、全体の九〇パーセント近くを占めている。その展示に五室が充てられていた。
 太平洋戦争は三年八ヶ月にわたる戦争であった。その間、民間人を含む三百十万人の日本国民が命を落とし、中国はじめ東南アジア諸国のおびただしい人々の命が奪われた。その数は二千万人以上に及んだとされている。だがここで祀られているのは、日本軍戦死者と戦犯として裁かれた者たちに限られている。

「避けられぬ戦い」
 「第二次世界大戦の情勢」を解説する二階の展示室には、朱色の「避けられぬ戦い」の文字が掲げられている。そこでは、戦争が避けられなかった理由として、ヒットラーの台頭、ドイツの膨張、ルーズベルトの世界戦略、アメリカの参戦、スターリンの共産圏拡大、近衛内閣の外交政策、三国同盟、日ソ中立条約といった史実が列挙されているだけである。
 図録には次のように書かれている。「第二次近衛内閣の憂慮は日米開戦と米国のヨーロッパ参戦であった。米国の参戦を絶対に阻止するには、三国同盟にソ連を加えた四カ国同盟で枢軸国に有利な戦力バランスを作為する以外にないと判断して、すでに締結されていた独ソ不可侵条約を踏まえて、日独伊三国同盟と日ソ中立条約が締結された」
 アジアでのアメリカの参戦を恐れていた日本は、日独伊三国とソ連を同盟国に引き入れ、それを力として対米交渉に臨んだ。だがその交渉も、侵略によって獲得した領土を手放すまいとする日本側の頑なな態度によって決裂し、開戦は不可避となった。
 その開戦の理由を説明するくだりで、パネルの解説は開戦の責めを負うべき側が相手国のルーズベルト大統領であったと、次のように解説していた。
 「大不況下のアメリカ大統領に就任したルーズベルトは、昭和十五(一九四〇)年十一月、三選されても復興しないアメリカ経済に苦慮していた。早くから対戦の勃発を予期していたルーズベルトは昭和十四年には米英連合の対独参戦を決断していたが、米国民の反戦意志に行き詰まっていた。米国の戦争準備『勝利の計画』と、英国、中国への軍事援助を粛々と推進していたルーズベルトに残された道は、資源に乏しい日本を禁輸で追い詰めて開戦を強要することであった。そして、参戦によってアメリカ経済は完全に復興した」。 アメリカは当初から対日戦争を計画し、開戦の火ぶたを日本に切らせたのだと言っている。
 映像ホールの映画「私たちは忘れない」のナレーションもこのようだった。
「アメリカのルーズベルト大統領は、いかにして日本に最初の一発を撃たせるかを考えていました。それはイギリスのチャーチル首相の要請でもあったのです。十一月二十七日、ハル国務長官からアメリカ側の回答が寄せられました。運命のハルノートです。ハルノートは中国やフランス領インドシナから、いっさいの日本軍隊および警察の撤退、日独伊の三国同盟の破棄、中国における蒋介石政府以外の政権の否認などを要求する強硬なものでした。このハルノートに日本政府は絶望しました。中国大陸には多くの権益があり、わが同胞も多数生活している。それを残して、軍隊、警察を撤退させることはできない。ことに、満州には日清、日露の戦いで多くの将兵の犠牲のもとに取得した合法的な権益がある。それを棄てることは到底できない」。ここでは、ハルノートが開戦の動機であるかのように語られている。
 しかし日本政府は、それ以前の41年7月2日の御前会議で、日中戦争の継続、対米英戦争を覚悟したうえでの南進を決定し、場合によっては対ソ戦もあり得るとし、その後成立した東条英機内閣は11月5日の御前会議で、11月末までに日本側の要求(対日経済封鎖の解除)が実現できなければ12月初旬に開戦することを決定していた。
 かくて、ハルノートが手交された同日の11月26日、千島列島の択捉島、単冠(ヒトカップ)湾に待機する日本海軍は予定通り行動開始する。
その開戦の背景として「ABCD包囲網」がパネルで示されている。中国と東南アジア、太平洋地域が、米英中蘭四国の支配する地域と、日本の支配する地域とに色分けされて示され、「ABCD包囲網」も重要な要因であったと言っている。あれこれ言わないと先制攻撃を正当化できないものと見える。
(以上の「避けられぬ戦い」の展示物は現在撤去されている。映像ホールの映画「私たちは忘れない」のナレーションもカットされているであろう。対米関係を配慮したものと思われる)

ハルノート
 当時の日本の戦時経済が図示されていた。戦争継続に欠かせなかった石油、鉄材などの物資を外国からの輸入(アメリカが最大の輸入国)に依存していた日本は、対日石油輸出禁止の解除をアメリカに求め、交換条件としてフランス領インドシナからの撤兵を約束する。ところが、それに対する連合国側の回答が、「日本国政府ハ支那及印度支那ヨリ一切ノ陸海軍兵力及警察力ヲ撤収スベシ」(ハルノート)といったものであったから、日本は交渉を打ち切らざるを得ず、備蓄石油があるうちの早期対米開戦論が高まった。
 ハルノートは、日本軍の中国からの撤退と同時に、すべての国家の領土及び主権の尊重、内政不干渉、紛争の平和的解決が謳い、中国の主権回復を求めたもので、それらは世界の新しい流れに沿ったものだった。しかし、ハルノートを開戦の「切り札」と考える日本政府の理解の及ぶところではなかった。
 家永三郎著『戦争責任』の中に、次のような記述があった。
「アメリカではハルノート提出に先立ち、日米交渉の成立の見込みのほとんどないことを前提としながら、日中直接交渉を促し、日中協定成立まで、アメリカは中国への軍需物品供給を停止し、日本側は中国、仏印への兵力増強を行わないなどを骨子とする、ハルノートよりもはるかに緩和された暫定協定案の提示をも断念していなかったのであった。暫定協定案が提示されず、ハルノートが渡されたのは、もっぱら中国の強い要望によるものであった」。 この記述からは、中国には自力で日本軍を自国の領土から一掃する自負と覚悟があったことがうかがえる。ハルノートは「日本の侵略に対する中国の強固な抵抗の決意に動かされたもの」(同著)であった。
敵味方の力関係を知り、当時の国際情勢を見通すことができれば、太平洋戦争は避けられたであろう。それは靖国の言う「避けられぬ」戦争では決してなかった。
 一九四一年十二月八日未明、奇襲攻撃は実行され、宣戦布告はそれに遅れて米国政府に伝えられた。図録は、それと同時に行われたアジア諸国への侵攻の「達成」を賛美する。 「遂に昭和十六年十二月八日の開戦を決意した日本の侵攻は、海軍機動部隊による真珠湾攻撃、第二十五軍のマレー半島上陸作戦で始まった。グアム、マニラ、香港、シンガポール、ジャワ、スマトラ、ビルマ攻略を始め連合軍の軍事拠点占領、南方資源地域及びその補給路確保の作戦はその目的を達した」
 だが、それもつかの間のことであった。ミッドウエイ海戦と、それに続く敗北は兵たちの屍の山を築きつつ敗戦へと急転回していった。と、ともに英霊の数も増大していくことになる。

                      奇襲成功セリ
遊就館は真珠湾攻撃を次のように語っている。 「大東亜戦争勝敗の鍵は米太平洋艦隊との決戦にかかっていた。連合艦隊司令長官、山本五十六大将は、開戦直後に空母の主力を投入して、真珠湾の敵艦隊を急襲撃滅する計画を立案、南雲忠一中将の率いる機動部隊が隠密裡にハワイに接近して奇襲攻撃に成功、壊滅的打撃を与えた」
 展示パネルに、その奇襲攻撃に功績のあった「真珠湾九軍神」の遺影が掲げられている。彼らは、艦載機による米太平洋艦隊への攻撃の直後、五隻の特殊潜航艇に搭乗し、敵艦に魚雷攻撃を仕掛けた。図録に「全員決死の覚悟で一名を残してみな戦死を遂げ、九軍神と讃えられた」。
 「特殊」とは自爆攻撃を意味し、出撃した一〇名のうち一名が軍神から除かれたのは俘虜となったからである。
ガラスケースの中に「山本長官に下された昭和天皇の勅語」を目にする。「宣戦の大勅」であった。それと並んで司令長官、参謀長、首脳参謀、幕僚の連名による奇襲攻撃命令「ニイタカヤマノボレ」の電文。新高山は植民地台湾の最高峰の日本名である。
 続いて「奇襲成功セリ」の電文。同日、間髪入れず、侵攻作戦がマレー半島において開始された。続いて日本軍は、比島、香港、中部太平洋諸島、蘭印、ビルマを急襲した。緒戦はそのどれもが快進撃となった。その連戦連勝の報に国民は歓喜し、目抜き通りのビルには祝賀の幕が懸けられ、街道は提灯を手にした人々で埋め尽くされた。だが、歓喜もつかの間のことであった。

必勝勤労対策
やがて戦線の拡大とともに兵員不足が深刻となると、政府は戦時体制を一段と強め、「国内必勝勤労対策」を決定し、販売店員、出改札係、車掌、理髪師など十七職種への男子の就業を禁じ、二十五歳未満の女子を対象に「女子挺身隊」を組織、「工業就業時間制限法」の廃止によって女子の深夜業を認めた。女子の坑内作業を許可すると、腰巻の裾をからげ、つるはしを振う半身裸体の抗婦の姿が写真入りで報じられた。当時、女子が軍需工場や肉体労働の現場で働くことは国策に沿った「婦道」と言われた。
一九四三年になると、東条内閣は南方戦線での兵力の消耗を補うため、大学、高等学校、専門学校学生の徴兵猶予を停止、それによって、入営した十代半ばから二十歳前後の学徒は全国で三万五千に及ぶことになる。
さらに、植民地であった台湾、朝鮮においても総動員令を敷き、百万近い人々を兵役と労務に駆り立てた。にもかかわらず、戦況はいっこうに好転しなかった。戦力に勝る米軍の反攻は、アッツ島で、タラワで、サイパンで日本軍を圧倒していった。

髑髏旗
 展示ケースに「士気を高めるために作られた髑髏旗」が置かれている。なぜそのような奇怪な旗を掲げたのだろう。
 図録は、「近衛歩兵第五連帯第三隊第十二中隊は、連隊長より髑髏を象徴した中隊旗を授与された。先にマレー作戦では、中隊を髑髏隊と称して、マレー、シンガポール攻略の先駆けたらんと隊員一同団結、第十二中隊は常にこの旗を先頭に勇戦敢闘し、ジョホール、バルを目指して進撃を進めた」と解説する。
 兵たちは授与された髑髏旗を掲げ、敵弾雨飛の中を猛進した。髑髏旗は勇猛を誇示し、相手を恐れさすためであった。だが、「死にもの狂い」というにはいたわしい。
 図録の中にマレーでの戦況を報じる「朝日新聞」の記事が載せられている。見出しは「鉄牛阿修羅の突撃、敵一個師団壊滅、マレー戦線彩る血戦記」「凄絶スリムの殲滅戦」。翼賛報道の見本である。報道はすべて戦意高揚が目的であった。

攻防の転換
パネルは続いて比島侵攻作戦へ。香港中部太平洋諸島の攻略、蘭印攻略戦、ビルマの戦いへとすすみ、将校たちの遺影と彼らが所持した銃や刀剣などが展示されている。そして、ミッドウエー海戦以降の標題は「攻防の転換点及守勢作戦」となる。
いよいよ敗色が濃くなった。展示品は相も変わらず将校たちの遺影と色紙、日記、遺書の類である。パネルはさらに敗北の戦場ガダルカナル、ニューギニア、アッツ、キスカ、インパール、マリアナへと続く。
展示ケースの中に、「サイパン軍民全員戦死」を報じる新聞を眼にする。それを報じる「中部日本新聞」昭和十九年七月十九日付けの見出しに、
「南雲、斎藤両中将以下、七日早暁最期の突撃、在留同胞運命を共にする、傷病兵三千先ず自決」。紙面中央に、黒地に白抜きの文字で「一億必死、この敵を打て」「皇国の勝利を確信、大義に生くるを悦ぶ」の見出し。
 軍と報一体の戦いは、その翼賛報道によって銃後の国民の胸躍らせ、無謀な戦争へと駆り立てていった。だが、サイパンでは兵二万八千人中、八千人が軍令によって丸腰同然の突撃か自決かを迫られ、生き残ったのは三千人でしかなかった。

本土防衛
展示はすすんで、いよいよ「本土防衛作戦」となる。戦況が絶望的となった戦争末期となると、戦争の大義は「自存自衛」に代わって「本土防衛」となった。その本土防衛の盾とされた「硫黄島」を、図録は次のように言う。
「僅か二十平方キロメートルの孤島に、陸上兵力だけで八万以上の兵員が死力を尽くして戦った。出血持久に徹した栗林兵団長指揮の防御戦闘は米海兵隊に甚大な損害を与えた。米軍の統帥部は国民の非難を浴び、講和の機運さえ生まれた」
ここでは、戦いが優勢であったかのように語られている。だが硫黄島もまた敗北の島であった。米軍が苦戦したとはいえ、日本軍は二万数千の戦死者を出す。その硫黄島も、サイパンも、そして沖縄も、所詮は「本土防衛」のための捨石でしかなかった。
 その沖縄戦を、図録はこのように称賛する。
「大東亜戦争で、最初で最期の国土戦、沖縄決戦は本土決戦に寄与するため、第三十二軍が堅忍持久に徹して全県民が一体となり三ヶ月近く戦い抜いた激戦であった」
 それは、県民の四人に一人が命を失うという真実とは程遠い。三十二軍によって沖縄県民は自決を迫られ、或いは殺害された。その「沖縄決戦」の司令官、牛島陸軍大将の上着が展示されている。

鉄兜と飯盒

 参観者は最後に「大展示室」へと導かれる。展示は艦上爆撃機「彗星」、海軍三年式糎高角砲、九七式中戦車、戦艦陸奥装備副砲、回天一型人間魚雷であった。
 展示室の中心にガラスケースがコの字に置かれ、その中に無数の赤錆びた鉄兜と、ひしゃげた飯盒などの遺品が、ところ狭しと並べられている。その、どの兵のものとも分からない「戦跡収集品」だけが、戦争と死の真実を生々しく伝えるものであった。
 もし遊就館がいうように「英霊が歩まれた歴史の真実を語る」のであれば、彼ら兵たちがどのようにして命を絶ったのかも語るべきではなかったのか。玉砕も自決もマラリアやコレラによる死もあった。戦死者二百三十万のうち六割の死が餓死であった。その兵の中には、沈没する艦船や輸送船から海中に投げ出され、陸地に泳ぎ着いたのち武器も食料もなく、生きるすべを絶たれた四十万から五十万の餓死した兵たちもいた。そうした死のむごたらしさはここでは語られていない。
 私が遊就館で見たものは戦争を導いた者たちの陋劣と、それによる多くの死の痛ましさであった。だが、その戦争によって命を落とした人々は自国民のみではなかった。ここではアジアの無辜の人々を含む2000万人の、おびただしい人々の死は語られていない。 ここでは、侵略戦争賛美の言葉はあっても、そのことにたいする悔恨の言葉は一言も語られていない。語られるのは、軍指導者と、その命に従った兵たちの賛美である。それは死者たちへの慰霊とも程遠い。慰霊は、その家族と親族がおこなうべきものだ。戦前に国民を戦争へと導いた靖国は、そのことの反省と死者にたいする謝罪なしに、その霊を鎮めることはできない。
 靖国は現在、何を目的としてこのような展示施設を置き続けているのか。  靖国の言う「英霊が歩まれた歴史の真実」を、ふたたび現代に蘇らせてはならない。靖国に祀られた死者たちも、その復活を決して望まなかったであろう。
ページのトップ△