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マスコミを斬る丸山重威のブログへ

◎国会質問の意味するもの─
 「偏向番組」とは何か


 5月20日の参院総務委員会で自民党の磯崎陽輔議員は、5月11日に放送されたNHKスペシャル 「セーフティネット・クライシス 日本の社会保障が危ない」 について、NHKの福地会長らに質問した。「特定の番組について質問することは避けるべきだ」 と言いつつ、番組をヤリ玉に挙げ、スタッフについてまで言及したもので、かなり 「異例」 な質問だった。
  もちろん本人は 「圧力を加える意図などない」 というだろうが、現場で仕事をした経験を持つ立場から言えば、こんな質問について気にしなかったら、むしろおかしい。もしかしたら、こういうのを 「圧力」 というのではないか? 最も恐れなければならないのは、職場の 「萎縮」。そんなことがないように、NHK首脳部や、労組の毅然たる姿勢を改めて願うばかりだ。

「社会保障が危ない」は偏向番組なのか
  磯崎議員は、「昨年12月20日に、ワーキングプアの放送の政治的公平性について、質問した。しかし、改善されていない。今度はよりセンセーショナルだ」 と前置きして、@ 健康保険証がなく手当を受けられなかった人について、医療費が支払えないため亡くなったというが、なぜ滞納が起きたのか放送されていない。死亡との因果関係について検証がなく、いい加減だ A 民医連の病院を2つも冒頭に取り上げており、深い関係があると地元ではいわれている病院だ。特定の政党と関係が深い病院だとすれば、政治的公平の観点から問題がある  B スタッフにその方面に詳しい人がいて、番組に影響を与えているのではないか、調査すべきだ−と、NHKの福地会長、今井副会長らに質問した。
  礒崎議員は 「保険証がなくなり、手当を受けられなかった人については、市町村には保険料の減免制度もあれば、生活保護の医療扶助もある。日本の制度は 『国民皆保険』 であり、医療を受けられないことは絶対ないように配慮されている。保険証の取り上げと死亡の因果関係を検証したのか。2年間に475人が死亡した、と放送し、『ほとんどが10割負担を恐れて、病院にかからなかったものと見られる』 などと、『ほとんど何とかかんとかみられる』 という言い方で解説し、きわめていい加減だ」 と述べた。
  問題はその先だ。

  磯崎氏は、番組が堺市の耳原総合病院と倉敷の水島協同病院を取り上げていることを問題にし、2つの病院は民医連に加盟している病院で、「地元では日本共産党と関係が深いとされている」 と発言、民医連を攻撃し、「そういう病院であることを知っていたか」 と日向英実専務理事に迫った。専務は 「私自身は知らなかった。ただ、多くの病院があり取材に協力を得られるところから選んでいる」 と答えた。
  磯崎議員はさらに、NHKスペシャルのスタッフの中に、「そうした方面の情報に詳しい人」 がいるのではないか、と述べ、「放送の政治的公平性に影響を与えているという疑念を抱く」 と述べ、「NHK内部の調査をしてみる必要がある」 と主張した。   今井義典副会長は、「この番組が政治的に公平性に欠けているとはいえない」 と答弁したが、ここでもう一度考えてみなければいけないのは、一般メディアがこうした攻撃を恐れて 「自己規制」 をしてしまいがちなことについてだ。

取材先の選別、スタッフへの攻撃
  つまり、この追求の仕方は、取材先を活動の中身や、そこでの実態で判断するのではなく、「ある特定の政党と関係があるかどうか」 で選別せよ、といっているもので、要するに 「アカ攻撃」 だ。
  しかし、こうしたことへの反応は、いまもメディアの内部に残っているものではないか。「そうか、あの病院も民医連か…。どこか違うところないかなあ…」 と、レッテル張りを警戒して必要な取材先まで変えてしまうこともあるかもしれない。その 「危うさ」 を見事に衝いて、そうした風潮に乗った卑劣な質問だと言っていい。


  そしてもっとひどいのは、「その方面に詳しいスタッフが居るのではないか。居て悪いとは言わない。しかしその影響が強くあるというのだったら問題だ」 という言い方だ。「その方面に詳しいスタッフ」 というのは何を意味しているのだろうか。
  言葉通りに受け取れば、こうした社会問題に詳しいスタッフが居ることこそ、NHKが誇るべき事柄であり、そうした人が、積極的に主導権を取って、いい報道をしていくことこそ、「皆さまのNHK」 にふさわしい。
  民医連の病院が、共産党と深い関係があるかどうか、私は知らない。共産党の党員だったり支持者だったりするスタッフが多いかもしれないとは思うが、恐らくそれも決めつけだろう。しかも、この番組は、病院の医療方針やその在り方を紹介した番組ではなく、たまたま患者対応の実態について取材に協力してもらったにすぎないのだ。

  最初の部分の質問についても、この番組を聞き直した人によると、 番組は 「無保険だったから死亡した」 と言ってはおらず、「無保険の状態で死亡した人が475人いた」 と、客観的事実を紹介していた、という。磯崎質問のことで言えば、その人たちには、「なぜ市町村の救済措置や、生活保護を受けなかったのか。それをしないで保険証が取り上げられても仕方がない、そういう人がまじっていないか。とすればそれはその人の責任だ」 と言っているように聞こえる。「それを調べたのか」 というNHKへの追求は、どこかおかしいのではないだろうか。

  気になることを付け加えておこう。福地茂雄会長は、磯崎議員への答弁で、「私は現場主義だ。だから、Nスペやいろんな番組の企画をしているところ、編集をしているところに突然行ってみた。20数人のスタッフが議論しながら実に熱心に問題を議論していた。編集のところもそうだった」 と答弁した。
  かつて、共同通信にも 「偏向攻撃」 の流れの中で、福島慎太郎氏が社長に乗り込んできた。現場はピリピリしたが、労組の団結と職場の積極的な動きに、現実にはほとんど何もできなかった。「報道の自由」 とはそういうものである。

「議会質問の限界」の常識
  もともと、磯崎議員自身が言っているとおり、メディアの個々の番組について、直接自身のことに言及されて、間違いがあったとか、被害を受けたとか言うのならともかく、国会の委員会というような場で追求し、意図や手法、出演者や内容までをチェックしていこうというのは、明らかに適当ではない。
  まして政権政党の議員が政治的な力をバックに、干渉的な発言をすることなど許されていいはずはない。
  自民党は2001年4月、「テレビ報道番組の一部は公平、公正さを欠いている」 と、所属国会議員や顧問弁護団による 「報道番組検証委員会」 を設置し、全国2000人のテレビ番組モニター制度を導入、定期的に報道内容をチェックしている、といわれている。
  言論には言論で、が原則であり、こうした問題を、国会や議会に持ち出すことこそ 「政治的」 であり、問題だ。

  NHKは安倍首相が古森重隆氏を経営委員長に任命して以来、「国益を考えた放送を」 との発言が飛び出したり、強引な外部からの会長任命があったり、政府・権力からの露骨な締め付けが始まっている。
  放送法に言うように、「表現の自由」 を確保し、「健全な民主主義の発達」 に資するために、NHKが、「あまねく日本全国」 で 「豊かで、かつ、良い放送番組による国内放送」 が提供するためには、こんなおかしな干渉ははねのけていかなければならない。(2008.6.16)
(了)

  *なお、この問題については、参議院のホームページから、磯崎議員の質問の全文を視聴できるようになっている。(下記アドレス) なお、同じ委員会で共産党の山下芳生議員がこの質問に対して 「反論」 している。     また、 「放送を語る会」 は、この問題について、磯崎議員に抗議文を出している。
*(「NPJ通信『マスメディアをどう読むか』より転載)



 ◎08年5月「9条世界会議」

 初日には遠い街からバスを仕立ててやって来ても、朝早くから電車を乗り継いで来ても、会場に入れなかった人たちが何千人も出た。二日目の集会は、実行委員会によるシンポジウムやフォーラムから自主企画まで含め26。映画やライブもあり参加したいものばかりだった。
 そのひとつ、私たちの国際自主企画シンポジウム「憲法九条とメディア」も、イスだけにして百六十人という会場に床に座ったり、壁際に立ってもらって合計二百人以上。資料はあっという間になくなった。
 幕張で開かれた「9条世界会議」で痛感したのは、「憲法9条を変えて日本人が戦争に行くような時代にしてはいけない」という国民の「思い」の大きさだ。「軍隊をなくして本当に大丈夫なんですか」と真顔で尋ねる若い青年を含め、ひと味違う参加者が主催者の予想を大きく超えた。
   同じ思いの人たちの集いは、互いを勇気づけ、勇気づけられる。大切なのは、「非戦・非武装」という考え方が着実に広がっているということ。それに気づいていないのは、案外運動をしている自分たちではないかとも考える。シンポでパネリスト、金成春さんは「大切なのは確信を持つことだ」と言い切った。もはや「9条」は日本だけのものではない。
   朝日の国分高史論説委員が書いている。「憲法9条は、ふだん国会で取材をしている政治記者の想像以上に広く、深く、若者たちの間に根を張っているのではないか」。
(5月10日付夕刊「窓」)
   体を動かし外に出よう。集会をのぞこう。現場で学ぶのがジャーナリストだ。(「ジャーナリスト」」5月号より転載)


     ◎イラク派遣違憲判決
   "無視"ですむのか


 イラク派遣は特措法にも反し違憲」とした名古屋高裁の判決が示された。
 主文では原告の請求を棄却しながら「武装兵員を戦闘地域のバグダッドへ空輸するのは他国の武力行使と一体化した行動で、自らも武力行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」とし、「平和的生存権は単に憲法の基本的精神や理念を表明したにとどまらず憲法上の法的な権利」とする。まさに「画期的な判決」だ。
 一方で判決は、自衛隊の存在や海外派遣については「自衛のため、最小限の武力行使は許される」「武力行使目的の海外派兵は許されないが、そうではない海外派遣は許される」と政府解釈を引く形で判断、国を勝たせた。退官を決めた裁判長の「司法の知恵」…。  だが、そうなるとやはり問題は政治だ。何らかの政策変更があっても当然だが、福田首相は「国の判断は正しいという結論だ。特別どうこうする考えはない」とうそぶき、町村官房長官は「こういう論議を認めるものではない」と言い切った。日本は「立憲主義」の国ではなかったのか。司法の判断をこうも簡単に片づけるのか?。
 4月8日付読売の世論調査では、憲法改正反対派が15年ぶりに改正派を上回った。読売社説は「改正論を冷やす政治の混迷」などと改憲に固執。この判決にも「事実誤認や法解釈の誤りがある」と決めつけたが、これこそ時代遅れだ。
 時代は九条に向かって動く…。五月の「九条世界会議」では「メディアと九条」のシンポジウムも開く。改めて世界と歴史の中で、いまを見詰める「目」と行動を!


◎ターゲットは民主党


 日銀総裁とか道路特定財源とかよく分からない議論が続いている陰で、危険な動きが始まっている。
 3月4日には、昨年衣替えした新憲法制定議員同盟が総会。中曽根会長の下、副会長には町村官房長官以下4閣僚と前原前民主党代表らが加わり、顧問に鳩山民主党幹事長、綿貫国民新党代表も入った。まさに「自・民同舟」(毎日)、「与野党改憲派がタック」(朝日)。昨年から取り組んだ国会議員の「憲法審査会の早期始動を求める決議」では、自民党282人、公明党35人、民主党26人、無所属など10人の計353人が署名した。この総会への民主党議員の参加者は15人だったそうだ。
 朝日、毎日が囲みで報道しただけだったが、読売は社説で取り上げた。そこでは「鳩山幹事長は、民主党幹部の議員同盟役職就任を機に『通常国会中に憲法審査会の立ち上げが動きだす可能性がある』と言う」と指摘し、「当面、急ぐべきは、衆参の憲法審査会の始動」と主張。民主党内の「慎重論」を牽制し、「次期衆院選に向けて野党共闘を維持するために『護憲』を掲げる社民党や共産党への配慮もうかがえる。だが、政略的思惑で憲法論議をゆがめたり停滞させたりすべきではあるまい」と述べ、「鳩山幹事長らに期待する」と締めくくった。
 「民主党はご存じのように寄り合い所帯で、もともと一筋縄ではない。でもいま、『平和』を語る議員がどんどん減って、だんだんものが言いづらくなっている。心配だ」―。ある民主党議員が述懐している。「ターゲットは民主党」なのである。

◎法の支配にも「そこのけそこのけ」
  「軍法」「軍事裁判」の先取りを許すな


     
 「やっぱり出てきた!」というのが実感だ。
 産経新聞28日付朝刊は1面トップで、「航海長聴取 問題か」と題する記事を掲載し、防衛省が海上保安庁の捜査前に「あたご」の航海長を省内に呼んで聴取したことについて論じた。
 記事では、「軍事組織が、早い段階で状況把握することは鉄則」とし、これが問題になったことについて、『航海長への聴取が問題となることは、日本が『普通の国』でないことに起因する。実はこちらの方が格段に深刻だ」と述べ、「軍隊における捜査・裁判権の独立は国際的な常識」「司法警察が事実上の国軍を取り調べる、国際的にはほぼ考えられない構図を、国民も政治家も奇異に思っていない」「軍事法廷のない自衛隊は、世界有数の装備を有する『警察』の道を歩み続けるのだろうか…」と主張した。

 自衛隊と漁船の衝突、2時間も3時間も報告を放置するといった独善的な対応、それに対して、「迅速だった」と評された海上保安庁の捜査活動…。既に一般には、海保が自衛艦の捜索に入ったことを驚きを持って迎えた向きもあっただろう。
 しかし、犯罪や重過失の事故があったとき、自衛隊が海保や警察の捜査を受けるのは、当然のことであり、「専守防衛」の組織である以上、自衛隊は、産経が書くとおり、「世界有数の装備」を有していても、「歩み続ける」のは「『警察』の道」でしかありえない。
 かろうじて保たれている「法の支配」のもとでの自衛隊が「そこのけそこのけ」の行動を取ることを許されてはならない。

 自民党の「新憲法草案」では、第76条3項で、「軍事に関する裁判を行うため、法律の定めるところにより、下級裁判所として、軍事裁判所を設置する」とし、「自衛軍」に関わる問題を「軍事裁判所」で扱うことを想定している。「自衛軍」が名実ともに「軍隊」であるためには、昔と同じように、軍隊内については「シャバ」とは違って、一般の法律の手が届かない場所でなければならない。そのためには、「軍法」が作られ「軍事裁判」が行われるようにしなければ、論理は貫徹しないのである。
 産経の記事では、医療事故でも病院が事情を聞くし、新聞記者が交通事故を起こせば社の幹部が事情を聞く、などと、組織の対応の問題にすり替えているが、今回の航海長の防衛省呼び戻しは、既に組織内の問題ではなく、警察権が行使されている中での話なのだ。

 既に、自衛隊法には、一般の法律が介入しない問題がいくつかある。今回のような事故についても、自衛隊は第一次警察権を持ちたいと考えるだろうが、それは自衛隊の性格を大きく変えることになる。以前から「改憲」を掲げている産経が、こうした論調の記事を掲げるのは、当然かもしれない。しかし、こうした記事が「呼び水」になって、自衛隊が「そこのけそこのけ」路線を、法制度にまで進めていくことを許すわけにはいかない。
 海上自衛隊と海上保安庁の間には、以前から縄張り争いにも似た軋轢がある。そこに目をやる議論も出てきかねない。しかし、そうしたことに惑わされるわけにはいかない。

 問題の本質はどこにあるのか。「あたご」は7750トン、全長165メ ートル、「清徳丸」は、7.3トン全長12メートル。「道路で言えば子どもの三輪車を大型トレーラーが押しつぶしたようなもの」とでもいえばいいだろうか。最新型の戦闘艦船が、海の男たちの神聖で平穏な職場に、自動操縦で突き進み、船をまっぷたつにし、その命も身体も奪い去った。
 もう一度考えてみよう。約1500億円といわれるイージス艦は本当に必要な装備なのか? ミサイル防衛のために、ということになっているが、一体どこからどんなミサイルが飛んできて、どう撃ち落とすというのだろうか。
 これを税金の無駄遣いといわずして、何を無駄遣いというのだろうか。
*『NPJ通信:http://www.news-pj.net/npj/maruyama/index.html』
より転載


◎首都ミサイル防衛


 深夜の新宿御苑で行われた「ミサイル防衛」のPAC3の展開…。テレビニュースは迷彩服の隊員のものものしい動きが紹介された後で、お決まりの「住民の声」が続いた。「近くには学校も病院もありますし、困りますねえ…」「まあ、国を護るためなら仕方ないんじゃないですか…?」  防衛庁が何年も前から整備しているパトリアット・ミサイルの迎撃システムで、首都東京を狙って飛んでくるミサイルを事前に撃ち落とすのだそうだ。何でも2010年までに、全国11基地に発射機約30基を配備する予定だそうで、テレビゲームの世界ではなく大まじめな構想だ。
 だが、ちょっと待ってほしい。大体、そんなミサイルが、本当に東京を狙って、どこからか飛んでくると思っているのかどうか?。
 「そんなことはわからない。ただ北朝鮮は何をするかわからないし、中国も危険だ。テロ集団もある。事実、ニューヨークは飛行機でやられたではないか」というのが、推進派の言い分だろう。だが、違うと思う。そんなことをすれば、「同盟国・米国」の報復でたちどころに自らの首都が壊滅させられ、国家崩壊に至ることぐらい想像できない指導者はいないだろう。
 それとも、そんなハリネズミのような仕組みを作って、「敵壊滅」のために「攻撃」をさせようとするのだろうか? ミサイル防衛の予算は、07年度で1826億円、補正を含めた06年度が1541億円という。
 アジアの信頼はこれで頼めるのか? メディアの伝え方はこれで良いのか? 考えるときではないか。
(『視角・http://www.jcj.gr.jp/view.html#20080118』より転載)


◎反撃が始まっている


 「安倍政権の崩壊は憲法を護ろうという運動の結果だった。福田政権になって、動きは慎重になり、状況判断はより現実的になっている。これは遙かに手強い。また、解釈改憲で憲法がないのと同じ状況にする動きもある。これを打ち破らなければいけない」―「九条の会全国交流集会」での加藤周一さんの話だ。2007年を送るに当たって、改めて考えたいのはこのことだ。
 確かに07年はひどい年だった。昨年冬、教育基本法が壊され、1月には防衛省が発足。変な大臣も続出したが、国会は強行採決の連続で国民投票法もテロ特措法の延長も決め、改憲ムードを高めた。だが、参院選で風向きが変わった。「私の政権で憲法改正」「戦後レジームから脱却、美しい国を造る」と豪語した安倍首相は、結局行き詰まり、自滅して政権を投げ出した。
 後継・福田政権の政治姿勢は一見ソフト。だが「国連決議があれば、どこに自衛隊を出しても違憲ではない」という論理の民主党・小沢代表の方が危険で、ナベツネ氏の介入で注目された「大連立構想」は、いまも決して消えていない。
 ただ確認しておきたいことは、いまわれわれは優位に立っている、ということだ。国民は改憲が戦争への道につながることを知ってきている。肝炎、原爆などさまざまな被害者たち、残留孤児や障碍者の訴えは高まり、医療費や年金で不安な老人から貧しい若者に至るまで、生活をかけた闘いが広がって、政府もそれを無視できない。
 07年は憲法を生かす民衆の反撃が新しく始まった年でもあった。
(『視角・http://www.jcj.gr.jp/view.html#20071215』より転載)


◎安部辞任


 安倍首相の退陣理由がさまざまに取りざたされている。だが要するに、国内の現実を見ず「改憲・米追従」で突っ走った末の「行き詰まり辞職」だ。メディアはまたもや「総裁選キャンペーン」に踊らされている。しかしいま、メディアに求められているのは、「日本の在り方」についての展望を示すことではないだろうか。
 端的に書こう。例えば、最も問題なテロ特措法だ。「延長」も「新法」も難しいから、ごく普通に考えれば、自衛隊はインド洋から引き揚げることになる。「米国の期待に背いて大丈夫か」と心配をする人もあるだろう。そこで必要なのは特措法期限切れを機に、新しい日本外交の構築を図ることだし、そこに確信を持ち、その考え方を世界に示すことだ。
 日本には平和憲法がある。だから戦争はしない。「国際貢献」も非武装が基本。取り敢えず、PKO以外、自衛隊は海外に出ない。米国とも中国とも友好関係は大切にするが是々非々で対応し、むしろロシア、韓国、北朝鮮を含めた「北東アジアの非核・非戦条約」を目指す。
 経済面でも外国と互しての競争を煽るのではなく、「格差」を是正し、社会保障を充実させる。貧しくともいたわりあえる「落ち着いた社会」を目指す…。そんな「新しい日本」の展望を描くことだ。
 民主党の小沢代表は「政局に巻き込まれず、淡々と政策で進もう」と話したという。その通りだ。政治で大切なのは「国民の安心」。「テロ特措法をやめても大丈夫。これは平和外交への第一歩」―その確信を広げることである。
(2007/09/17)

 
  
◎テロ特措法と日本外交

 「9・11テロ」を受けて、ブッシュ大統領は「これは戦争だ」と叫び、アフガニスタンを攻撃した。「敵か味方か」「ショウ・ザ・フラッグ」と言われ、小泉政権は特別措置法を作って自衛隊をインド洋に派遣、石油の供給を始めた。
 もともとテロは「戦争」ではなく「犯罪」だ。その犯罪の容疑者を隠している、と他国を攻撃し政権を崩壊させるなど、どう言い繕っても正当ではない。だが、小泉政権は「テロとの戦争」という米国の言い分を受け、「後方支援」つまり「兵站」に踏み切った。2年後のイラク戦争では「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と言われ、陸上自衛隊派遣と航空機による輸送へと活動を拡大するイラク特措法を作った。
 時限立法は、期限を切ることで、その内容についてチェックし総括する機会を与える。だが、テロ特措法では、03年、05年、06年の3回、ろくに論議もせず延長を繰り返した。この11月、その期限がまた切れる。民主党は3回とも反対で、今回小沢代表もその姿勢を表明した。これまでの経過からも、憲法の精神からも、当たり前のことだろう。
 だが「特措法廃止は日米関係を悪化させる。日本は米国について行く以外生きられない」と言う意見がある。「アメリカ離れは不安」…。本当にそうか?
 「ガキ大将」の後を追うだけの日本でいいのか? いま求められるのは「自立した外交」を築くことだ。憲法が想定する「専制と隷従、圧迫と偏狭のない世界」「戦争の惨禍のない世界」に確信を持ち、それを進める決意を持とう。それが出発点だ。
(2007/08/10)

◎戦争を「つくる」のはメディアなのか?
   
マードックとイラク戦争

19日のロンドン共同電によると、ダウ・ジョーンズの買収を進めているルパード・マードック氏が、03年3月20日のイラク攻撃前、11日、13日、19日の3日間にわたり、ブレア英首相と協議していたことを、イギリス政府自身が認めた、という。
 AP通信などが報じたとのことで、英国議会のエイブベリー上院議員の情報開示請求に政府が答えたものだそうで、共同電は「会談の内容は明らかでないが、英国の参戦をめぐって同氏が『背後から影響力を行使していた』(同上院議員)との見方も出ている」と伝えている。
 この時期のことを思い出すと、湾岸地域には米軍の配置が進み、米国の意思はかなりはっきりしており、「いつ始まるのか」と世界中が固唾をのんで見つめていたときだった。だから、「影響力」と言っても、どの程度のことかは分からない。「アメリカが戦争を始めても参戦するな」と説得していた、というなら、もちろん評価に値するが、逆に、ブッシュ政権の「特使」として、ブレア首相に英国の参戦を促すため、何らかの橋渡しをしていた、というようなことでもあれば、実は重大な問題だ。
 実際、ブッシュ大統領が世界中にウソをついて情報のねつ造までしてイラク攻撃に固執し、フセイン政権を倒しイラクを破壊したのか、については、謎が残っている。
 「中東にも民主主義をうち立てるため」という「信仰」に大きな要因があるとしても、それだけでは納得できない。「石油埋蔵量世界最大の地の確保」、「石油ユーロ建て取引への危惧」、「サウジアラビアの軍事基地の代替地としてのイラク確保」などが上げられ、論じられているが、それでもまだよく分からない。そんなときに、英国首相と「メディア王」が親しく話し合いをしていた、というのはスキャンダル以外の何者でもない。
 そもそも、マードック氏とは何なのか? もちろん彼がジャーナリストであるとは誰も言わないが、彼の買収に遭遇して、「平均株価」で知られるダウ・ジョーンズが、「編集権」をテーマに議論せざるを得ないほど、ジャーナリズムは「危機」に襲われている。
 湾岸戦争が「CNNの戦争」といわれたのに対し、イラク戦争は「FOXテレビの戦争」といわれた。言うまでもなく、FOXグループはマードック傘下のニューズ社のメディア企業群だ。そして、英紙「タイムズ」(ロンドン・タイムズ)もこの傘下にあり、「1997年のブレア政権発足以来、政権支持の姿勢を打ち出し、イラク戦でも政府の方針を支持」(共同電)している。その総帥がマードック氏だ。
 
この手の話で有名なのは、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストのことだ。
 1898年2月、ハバナで米国の戦艦メイン号で爆発があり沈没した。米国は直ちにスペインによるものだとして、宣戦布告、米西戦争が始まるが、このとき、「ニューヨーク・ジャーナル」を経営していたハーストは、キューバに派遣した画家、フレデリック・レミントンが、「ここに戦争はありません」といってきた電報に「その場にとどまってほしい。君は絵を送れ、私は戦争をつくる」と答えたという。(チャルマーズ・ジョンソン「アメリカの悲劇」文藝春秋)
 「この話はウソだ」という説もどこかで読んだ覚えがあるが、そんな話が信じられてしまうほど、報道は扇動的で、米国民の愛国心を鼓舞するものだった、ということだろう。
 もう一つ思い出すのは、1961年、ニューヨークタイムズが、ケネディ大統領の要請を受け、キューバ侵攻作戦に関するスクープ記事の掲載を見送った事件だ。
 このとき、ニューヨークタイムズは、事前に「キューバ侵攻」をキャッチした。しかし、ジェームス・レストン記者のアドバイスで、侵攻の切迫もCIAのことも、報道しない方が国益にかなうと判断し、編集幹部の猛反対を押し切って、その事実を書かなかった。
 その結果、侵攻は行われたが大失敗し、ケネディ大統領はのちに「あのときニューヨークタイムズが知っていたことをみんな活字にしていたら侵攻は中止されていただろう」と語った、という。(原寿雄「ジャーナリズムの思想」岩波新書)
 
 「戦争になると新聞が売れる」のは本当である。新聞は宅配が90%を超える日本でも、湾岸戦争時やイラク戦争時には、駅の立ち売りでスポーツ新聞がよく売れた。
 タイムズが売れるために、マードックはブレアに参戦させた…? そんな風には思いたくないが、イラク戦争でニューズ社が稼いだカネは、戦争がなかったらどうだったのか、そんな試算を誰かしていないか、と思ってしまう。
 「戦争の最初の犠牲者は真実である」ということばの背景が、ここにもある。
(2007年7月21日)


 ◎「けしからん罪」と「憲法で戦う」ということ

 
メディアの現場に「けしからん罪」という言葉がある。
 「いくら何とか還元水を使ったとしても、何百万円にはならんだろう。けしからんじゃないか」「コムスンは1カ所でも問題が出て処分されると、全体に波及しては困るから、その事業所はすぐ閉鎖する。これは違法じゃないけど、けしからんことだよ」というふうに使う。つまり、一見違法ではないが、やっぱり問題だ、という種類の問題についていうことだ。
 今回、共産党による告発で明らかになった自衛隊・情報保全隊の市民活動への監視は、まさにこの「けしからん罪」だ。
 法的に見ると、すぐ「○○法に違反している」とはいえないかもしれない。しかし、「集会、結社の自由、言論・表現の自由」をうたった憲法21条、「思想、信条の自由」をうたう憲法19条に違反する。「違反」と言って悪ければ、少なくともその考え方に真っ向から挑戦する行為だと思う。
 政府は、大臣が「当然の行為」と開き直り、次官「詳細は手の内を明かすことになるから言えない」とそれに従っている。少なくとも「誤解を受けて遺憾だ」とすら言っていない。
 では、専門家はどうか、というと、「確かに問題がある行動だ。だが、自衛隊法にも、これこれの活動をしてはならないとは書いていないから、決められた業務からの逸脱だが、グレーゾーンでしょうね」というのが、一般の法律家のごく普通の解釈だろうか。
 かくして、この種の行為は、いくら抗議をしても、のれんに腕押し、見解の相違。…要するに「やり過ぎ」「そんなものを流出させるからいけない」ということで終わってしまうのが、これまでの常である。それでいいのだろうか?
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 1966年秋、共同通信大津支局の記者だった私が、自衛隊適格者名簿の存在を報道したときもそうだった。16歳から25歳の自衛隊入隊の適齢者について自治体に名簿を作らせ、入隊の勧誘に使っていた。その事実が報道されると、国会で問題になり、民青、社青同などといった青年組織が「徴兵制復活につながる」と全国で抗議運動を展開した。
 しかし、それだけだった。37年後の2003年春、毎日新聞が同じ問題を「住民基本台帳から抜き出して提供を求めていた」として報道して問題になり、こちらは新聞協会賞を受けたが、自衛隊が適齢者名簿集めをやめた気配はない。
 少し醒めた目で見れば、結局、自衛隊は「情報活動制限法」でも出来ない限り、こうした活動を続けるだろうし、法律が出来たところで、いまの憲法無視、基本的人権などそっちのけの姿勢の中では、こっそり続けようとするだろう。軍事組織とはそういうものだ、という指摘もあろう。やっぱり、問題の所在は、自衛隊そのものにある。

 共産党が問題の資料を暴露した6日、私はいきなりテレビのインタビューを受け、かなり長時間話した。だが、番組の中で使われたのは、何秒くらいあっただろうか、「憲法21条の集会結社の自由に対する挑戦です」というほんの一言だけだった。この日はコムスン問題やらサミットやらのニュースが多く、全体の時間がそもそも短すぎた。実際に監視対象とされて名前が出てくる当事者の発言の紹介が優先されるのは当たり前で、そんな狭い枠に、とにかく一言突っ込んでくれた担当者には、感謝こそすれ、何の恨みもない。
 しかし、それを言い出すと、マンションから血を滴らせた荷物を3人組が運び出した、とかいうニュースは、庶民受けする絵になるニュースだとしても、いくらなんでも長すぎたのではなかったか。
 7日付の新聞の対応は、朝日、東京が1面から問題を展開した積極的な報道をしていたのに対し、読売、日経は第2社会面の2〜3段、産経は総合面の2段で扱っただけだった。なぜ、こんなことになるのか。「共産党の発表だ」という偏見や、政府の主張に沿って「当たり前だ」と考える考え方の問題もあるだろうが、むしろこれは、現場の「問題意識」ないし「ニュースバリューの判断」の差ではなかったか。要するに、この問題を「けしからん」と思うか、思わないか、という「憲法感覚」の問題である。
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 調布市で映画「日本の青空」の上映について、5月中旬、市と市教委に後援を求めたら、拒否された。理由は「製作者のあいさつ文に『改憲反対の世論を獲得する』とあった。政治的に中立とはいえない」というものだった。憲法99条は公務員の憲法擁護義務を決めており、それがベースで自治体も成り立っている。それなのに、「改憲反対は政治的だ」という論理を認めていいのだろうか。
 同じようなことは、他の町でも起きている。川崎市は、この4月、これまで23回にわたって毎年後援してきた市民主催の平和集会に対して、ことしは後援を拒否した。護憲を訴えているというのが理由で、昨年のアピールに「教育基本法改悪反対」憲法改悪反対』があったからだそうだ。
 憲法を変える、というのはいまの態勢を変えようというのだから、政治的かもしれない。しかし、憲法を護り、その精神を進める、というのは「政治的中立を侵す」ことでは絶対ない。ここは、少なくとも「法」に携わるものだったら、譲るわけにはいかない、というのがものの道理というものではないか。
 時代がファシズムの方向へ進むとき、小さいかもしれないが、「けしからんこと」、「見逃してはいけないこと」が積み重なって、「既成事実」となり、世の中が大きく変わってしまうことは歴史が証明していることだ。
 
 「憲法改悪反対」「改憲反対」を「政治的」としてレッテルを貼り、その言葉を使えないようにしてしまう。一方で、かつては右翼の言葉だった「自主憲法制定」「自虐史観」などという言葉が平然と持ち出され、誰も問題にしなくなってしまう。「日独伊3国同盟」まで行かなくても、かつて「同盟関係」という言葉をめぐって外務大臣が辞任したがあることさえ忘れ、「日米同盟」を「かけがえのない同盟」などと表現して恥じない政治家、これを容認するメディア。そして、それがまるで当たり前のことであるかのように動く世論…。こんなことを許してはならないのではないか。
×           ×
 考えてみたいことがある。自衛隊の監視で名前を挙げられた個人、団体は、明らかに精神的に損害を受けている。これをはっきり認めさせ、謝らせるための訴訟は出来ないか。「後援」を拒否された理由についても同じだ。また、ここらで、自衛隊の「情報活動」を規制するための法律も考える時期に来ているのではないか。そうしたことを運動にしていく時期が来ているのではないか。
 「弁護士さんは勝ち目がない訴訟をしたがらない」という反論がすぐ出てくるだろう。「自衛隊の活動を規定することは自衛隊を合法化することになる」という反論や「『情報活動』という言葉自身が曖昧だ」という反論も出るだろう。しかし、「憲法を護る」、「憲法で戦う」ということはそういうことではないか、とも思う。

 当たり前のことを当たり前に見て、「けしからん」という憲法感覚。それを取り戻し、ひとつひとつ、じっくり闘わなければ行けない、と痛切に思う。それをどうやって、大きな力にしていって、日本をもっと明るい、自由な社会にしていくのか、考えなければいけない、と思う。
 そして、当然のことながら、その小さな動きをきちんと捉えることが出来るかどうかが、ジャーナリズムにとって最も必要なことだと思う。求められているのは「憲法感覚」であ利「憲法に根ざしたニュース感覚」だと思う。
 船の行く手にある小さな暗礁を見つけて警鐘を鳴らさなければ、社会の水先案内人の役割は果たせない。

*本稿は原稿は日民協の「法とメディアのあいだ」のために書いたものです。著者の許可を得て「転載」しました。
                           (2007/6/9)


◎覚悟を持って平和と生活、そして民主主義を守ろう

2007年、年の初めに考える

 2007年を迎えた。統一地方選、参院選の年であり、遡れば、日中戦争が本格化した廬講橋事件から70年、日本国憲法施行から60周年、そしてサンフランシスコ講和条約の発効から55年になる。

▼いま、日本と世界…
 2006年秋、安倍内閣を誕生させた日本は、「戦後教育」の理念を「個人」から「国家」へ全面転換させようとする教育基本法の改正を臨時国会で実現させ、「国のために自らを犠牲にすることができる国民」(安倍首相)つくりに乗り出し、一方で自衛隊の海外派遣を「本来任務」とする防衛省昇格関連法を成立させた。イラクでは航空自衛隊が、インド洋では海上自衛隊が、「国際貢献」の名で米軍の物資輸送や燃料の供給を続ける中、防衛庁は9日から防衛省になり、防衛庁長官は防衛大臣になる。
 「日米軍事一体化」を進める基地再編は、地元の反対を押して進められ、一方で北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のミサイル実験、核実験を契機にして、「日本も敵基地攻撃について検討すべきだ」「核保有についても議論すべきだ」という発言が閣僚から公然と語られ、首相は自ら「米国に向かうミサイルを撃ち落とす」とか「任期中に改憲する」とか口走っている。日本は、何のためにか、急激に「軍事化」が進んでいる。
 しかし、世界の潮流から見ると、どこかおかしい。日本の動きは後ろ向きだ。
 アメリカのイラク侵略は丸3年半を経て、一向に治安は回復されず、米兵の死者は3000人に近づき、盟友だったブレア英首相は退陣を予告した。さすがに米国内部でもブッシュ大統領の支持は下がるばかりで、中間選挙に敗北、ラムズフェルド国防長官をはじめネオコン・グループは一斉に退場を余儀なくされた。押し詰まってフセイン元大統領を処刑したが、自国の利益によってだけ動く米国の政策は至る所で破綻している。
 そして、1998年12月、ベネズエラのチャベス大統領が初当選して以来高まった中南米の変革の波は、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア、チリ、ニカラグア、エクアドルと広がり、チャベス大統領は2006年12月、3選を果たした。「新自由主義」と「米州自由貿易協定反対」、「これ以上の民営化のストップ、福祉と国民生活優先」、「資源主権の回復と経済関係の多様化による自立」は共通したスローガンだ。
 かつての「プロレタリア革命」と同一視はできない。だが、20世紀が生み出した「貧困」と「暴力」に対する民衆の闘いが、ようやく形を作り出しつつある。

▼社会の崩壊を放置しておいていいのか
 昨年の日本で、大きな問題になったのは、秋田の2人の母親による子供殺しであり、連鎖反応のように広がった、小中学生の自殺だ。もともと、毎年3万人を超えている自殺者数は、人口10万人当たりにすると、どこも20人以下といわれてるのに、日本は25人を上回り、異常な高さになっている。
 至る所で「競争」が強制され、ゆとりと人間らしい触れ合いを失った社会…。そんな中で、追い詰められた人々の「自殺」。それが若者から子供にまで広がっていることは、まさに社会の問題だ。
 昨年から今年に掛けてベストセラーとなった「下流社会」に見る通り、「格差」が至る所で問題になったが、その「格差容認社会」は、地域秩序の崩壊をもたらし、これまで見られなかった性質の犯罪をはじめ、多くの社会問題を生んだ。庶民への減税措置が次々削られただけでなく、障害者や生活保護家庭への援助は「自立」の名の下で削減され、「景気回復」の掛け声も空しく、生活はますます圧迫されている。
 既に「日本社会の格差」は、経済協力開発機構(OECD)の報告(2006年7月)でも、18歳−65歳の「生産年齢人口」で、これは、可処分所得が全体の中央置(真ん中)の半分に満たない家計の割合を示す「相対的貧困層比率」は、1990年には11.9%だったのに、2000年段階ではアメリカの13.7%に次いで2位の13.5%となり、先進国中、米国に次いで2位、他のOECD諸国から突出し、「格差が固定化している傾向が見られ、包括的な対策が必要だ」と指摘されている。
労働組合の組織率は18.2%という中で、働いても生活できない「ワーキングプア」が若者の間まで広がっている。そこに追い打ちを掛け、超過勤務を野放しにする「ホワイトカラー・エグゼンプション」の提案が出されている。
 市民法の基本を崩す「共謀罪」同様、労働法の基本を突き崩す、「戦後政治」どころか、「社会発展の歴史」の「総決算」が進められている。そしてしかも、これが労使と学識経験者まで入った「労働政策審議会」で報告されることに事態の深刻さがある。

▼メディアそのものを見詰めてみよう
 われわれが世界のこと、政治のこと、社会のことを知り、考え、議論するベースは、マスメディアによる報道である。一般に、そこに報じられている事象は、大きな間違いはないと信じられ、事実間違っていることはそんなに多くはない。しかし問題は、メディアが何を取り上げ、それによって国民の関心をどういう方向に導いているか、である。
 例えば、一昨年の「郵政選挙」で、テレビは確かにどこの選挙区でも、秒単位で候補者を公平に取り上げた。しかし、その選挙区の選択は、「郵政民営化」についての「造反議員」と「刺客」の闘いによって選ばれ、そこに集約された。2006年秋、教育基本法改正で、衆院が強行採決すると、新聞はこれを揃って批判した。だが、沖縄知事選で野党の敗北であっさり国会が正常化されると、反対運動の高まりを報じることなく、「教基法改正成立の見通し」と一斉に報じ、「結局そんなものかな…」というムードの後押しをした。
 「マスメディアは国家統治機構そのもの」という断定をしなくても、こうした事実をはっきり見詰めることなくして、メディア・リテラシーは成り立たない。
 改憲手続きを決める国民投票法案をめぐる自民、公明、民主の協議が大詰めを伝えられている。「憲法改正」が提起されたあと、一定の期間、条件を限ってかもしれないが、「改憲反対」を語ることができなくすることが、当然のように話し合われている。「一般人は大丈夫」とか「期間を限っての話だ」とかいうことではない。言論を封殺して「投票」をさせようという投票で国民の合意はない。そしてもともと、何のための改憲か、なぜいま改憲が必要なのか、の議論を抜きにした改憲論に合理性はない。
 そんな動きにジャーナリズムは何を言うのか。流されていていいのだろうか。

 ▼覚悟を持って平和と生活、民主主義を
そこで注目したことがいくつかある。ひとつは、憲法を護る「九条の会」の広がりであり、もう一つは、自分の生活を見詰める中での若者の動きである。
 2004年6月、鶴見俊輔、梅原猛、加藤周一、三木睦子、大江健三郎、奥平康弘、井上ひさし、小田実、澤地久枝の9氏による呼び掛けで始まった「九条の会」は、全国でそのアピールに賛同する人々の会が続々と生まれ、2周年を迎えた昨年6月には、分かっているだけで、全国で5174団体に上っていると報告された。
 各地の「九条の会」では、それぞれ独自の形で縦割りで広がっていた運動が、地域や分野で新しいつながりを見つけ、それまで知らなかった活動家たちが互いに協力し合う形が生まれている。これはいままでの運動に見られなかった特徴で、団塊の世代が地域に帰る時期を迎えて、新しい展望を開くことが期待される。
 もう一つは、そうした活動の中に、まだまだ大きな流れにはなっていないにしても、若い世代の活動が見られるようになってきていることである。とくに、既成の労組に見放されたユニオン組織の若者や、インターネットを使った活動など新しい色合いを持った感覚の運動が広がりを見せている。彼らが労働と生活の現状から、現代を見詰め発言し始めるとき、「日本のいま」を変える大きな可能性を持っていると言えるのではないだろうか。
 例えば、連合も全労連も一致して反対できるホワイトカラー・エグゼンプションについて、「07春闘」で大きな盛り上がりをつくることができれば、統一地方選や参院選に大きな激励となることは間違いないだろう。
 「選挙の年」といっても、大幅な「死票」を生む小選挙区の選挙制度に大きな期待はかけられないかもしれない。だが、投票行動を通じて、まやかしの宣伝に惑わされず、本当に譲れない一線をきちんと意思表示できるかどうかは、非常に重要なことである。
 「戦争は嫌だ」には理由はいらない、という。「死ぬのも、殺すのも嫌だ。だから、戦争は嫌だ」とみんなが表明することで、日本が「戦争国家」に転落していくことを防がなければならない。「ただ働きも過労死も嫌だ」と言い続けることで、労働の原則を破壊する法改正を阻止し、「私はひとりでも発言し続ける」と語り続けることで、言論・表現の自由を護らなければならない。
 2007年、国民が本気になって、覚悟をして、平和と自分たちの生活を、そして民主主義を守らなければならない年ではないだろうか。
       (丸山重威・関東学院大学、日本ジャーナリスト会議)


 ◎ミサイル問題と「『敵』基地攻撃容認論」

 「国民を守るために必要なら、独立国家として限定的な攻撃能力を持つことは当然だ」(額賀福志郎防衛庁長官)「核を搭載したミサイルが日本に向けられるなら、被害を受けるまで何もしないわけにはいかない」(麻生太郎外相)など、北朝鮮のミサイル発射を契機に物騒な発言が続いている。
要するに、「やられる前にやるのは自衛の範囲。戦争を日本から始めることも視野に置いておく」という論理だが、こともなげに議論が出てくるのが恐ろしい。

 10日朝、フジテレビ「特ダネ」から、いきなり見解を求められた。「憲法との関係を話してくれ」という。もちろん私は憲法の専門家ではない。「いいんですか?」と言ってみたが、「先生は憲法や有事法制にも詳しいと思うので…。もう放送中ですから、8チャンネルをつけてください。CMの後ですからお願いします」という。覚悟を決めて話した。
 −こういう発言が出ているんですが、どう思われますか?
 「私は大変危険な発言だと思います。そんな事態にならないようにすることが政府の仕事だと思うんです。どうしてこんな状況になったか、ということについては政府に大きな責任があるはずです。日本国憲法は戦争放棄を決め、交戦権は認めない、と決めています。自衛隊ができましたが、それからの歴史の中で生まれてきた考え方が専守防衛だったわけで、先制攻撃などもってのほかだ、ということです。そういう考え方を大きく変更するのは大問題です」
−しかし、その議論は有事関連法ができたときに議論されたはずです。この法律を根拠に考えればいいではないかという議論は成り立たないんでしょうか?
 「確かに、そういう解釈ができるという方もあります。しかし、憲法を考えてみると、もう再び戦争をしない、そういう国際関係を作っていくんだという決意をして、憲法を決めたのです。その精神ははっきりしているはずです。だから、政府の当局者が攻められたらどうするかという話ばかりして、攻められないようにどうするか、を考えない。それはだから、それに沿って判断しなければいけない。北朝鮮であろうとほかのどこの国に対しても、『そんなことをしないでよ』といえる関係を作らなければいけないんです。
第一、ミサイルが10分で飛んでくるとして、これを落とせたら、相手は5分で来るものを開発するでしょう。盾と矛を売る人がいてどっちが強いかと言われて、答えられなくなり、矛盾という言葉ができたように、そういう対応ではどこまで行っても問題は解決しないと思います」
 ざっと、そんなやりとりだった。
  
 私の発言を受けてコメンテーターたちもうなずき、ピーコさんは「中国と韓国との関係をきちんとやってくれば、北朝鮮との関係もうまく行っていたたかもしれない」と発言、諸星裕氏は「最終的に外交的に解決しなければならないんだから、最初から外交できちんとやってほしい」と発言した。
他局に先駆けてこの問題を取り上げたフジテレビは、積極的だった。驚かされたテレビインタビューの結果、その後の議論のたたき台をつくることに、図らずも加わることができたわけだが、「敵基地攻撃問題」は、日本の生き方にとって、根源的とも言える重要な問題である。
(了)


  ◎民主党はきちんと事後調査せよ

 まともに政治取材をしたことがあるジャーナリストなら、「怪文書」に出くわしたことがない人はあまりいないだろう。出所不明、筆者不明、いかにも本当らしいし、本当のことが含まれている、誰か特定の人が攻撃される、もし本当だったら大ニュースの可能性がある…。

 そんな情報があるとき、まず記者は「ウラ取り」に歩く。まず情報源と思われるところに当たり、関係者や問題の周辺から取材する。本人にジカ当たりするのは一定の取材をしてからだ。「火のないところに煙は立たない」ということわざもある通り、怪文書の内容はウソだが、その過程で違う特ダネが書けることもある。怪文書をバカにしてはいけない。

 国会を空転させ、民主党を大きく傷つけた「ニセ堀江メール」問題は、どうやら永田議員に情報をもたらした「フリー記者」に問題がありそうだが、真相はわからない。彼がなにをしたのか、「カネ」が動いていたのかどうか、単なる愉快犯なのか、もっと大きな陰謀か?

 とにかくひどいのは情報の扱い方の基本ができていないことだが、よく考えてみると「若い議員だから」ということではない。国会も社会も、かなりいい加減なムードで動いているせいではないか。
 イラクの大量破壊兵器問題はインチキ情報に踊らされたことがわかっているし「9・11」もさまざまな疑問が出されている。民主党を言いなりにさせるための「陰謀」が背景にあったとしたら、事態は全く深刻だ。

 大事なのは、そうした疑問や、なぜ間違ったのか、なぜだまされたのかについて、きちんと第三者を入れて調査するクセだ。イラク戦争も、偽メールもなぜ間違ったか、明らかにされなければならない。

 「ムード」を排し「道理」に基づくジャーナリズムを
−2006年、社会と政治を考える
 
    
  戦後60年の日本は、社会全体が大きく揺れ、これまでの価値観や信頼が大きく崩れてしまったことを実感させられた年ではなかっただろうか。
 2006年、新しい年を迎えて、改めて「社会」と「政治」を見つめ直し、ジャーナリズムの責任を考えなければならないと思う。

▽犯罪と事故の周辺
 2004年末、奈良で起きた帰宅途中の幼女の誘拐と殺害は衝撃的だったが、2005年も11月に広島で小学校1年の女児が殺されて段ボール箱に入れられて見つかり、近所のペルー人男性が逮捕された。続いて栃木県今市市でも小1の女児が下校途中に行方不明になり茨城県で見つかった。「通学路の安全」がこれだけ問題になったのは初めてだ。
「被害者」としての子供は、大人が守るしかない。しかし、少年が「加害者」になった犯罪もかなり異常だ。6月、東京・板橋の高校1年生の少年は、両親を殺害し、室内をガス爆発させた。10月、静岡・伊豆の高校1年の女子生徒は、母に毒物を飲ませたのではないか、と取調中だ。11月、東京・町田の高1の少年は「冷たくされた」と信じ、同級生だった少女を刺殺。12月には、京都府・宇治の進学塾で、講師の大学生が6年生の少女を刺殺した。なぜ少年たちがこうも惑うのか。
 4月に福知山線・尼崎、12月に羽越線・庄内町とJRで相次いだ事故は、築き上げられてきた技術が、社会の「暴走」についていけなくなったことを示しているようだ。
 尼崎事故では、「民営化」後の企業競争の中でダイヤがますます過密になり、運転士は「遅れ」による処分に戦々恐々となっていたことが明らかになった。12月の庄内の事故では、自然の猛威に対応する対策が講じられず、86年の余部鉄橋の事故や、78年の営団・東西線の荒川鉄橋事故の教訓が生かされていたかどうかが問題だった。3月の東武鉄道・伊勢崎線の「開かずの踏切」の事故からも、過密ダイヤに設備が追いつかず、それを人間の「カン」でこなしている実態がうかがえた。車両の軽量化、スピードとダイヤ編成、そうしたものが、事故を誘発し、大きくしているのではないだろうか。
 11月に明らかになった一級建築士による耐震データ偽造事件は、建築確認という基本的な管理業務を民間委託にした結果、企業競争を激化させ、エリートのはずの一級建築士まで「弱い自分がいた」と言わざるを得ない状況を生んだことを明らかにした。「安さ」を求めるカネと競争が、圧力となって、専門家の誇りまで奪ってしまっている。

▽「格差社会」を放置していいのか
戦後の日本。「戦争をしないこと」を誓った国が、理想として考えたのは、「ゆりかごから墓場まで」という欧米の社会保障制度を基礎にした「福祉国家論」だったが、80年代、サッチャー、レーガン流の「中曽根・新自由主義路線」が冷や水を浴びせた。「小さな国家」「民間活力の活用」「効率化」「競争原理の導入」がスローガン。国鉄、電電などの民営化を進め、「自立自助」「受益者負担」を色濃く、福祉切り捨てが進められた。
 以来20年、受け告げられたこの路線は、いま「小泉改革」となって現在に至っている。「軍事・金融・情報では覇権を譲らない」とする米国からの圧力も、ますます強くなって日本を覆っている。小泉首相は、「民でできることは民に」「改革なければ景気回復なし」「改革に終わりはない」などと、短い言葉を飛ばしながら、社会保険料を次々と引き上げ、大増税の予算編成を計画している。
 しかし、考えてみよう。本当にこれでいいのか。
 事件、事故に表われてきた社会の歪みは、規律や節度を失ったこの放縦な政治と密接に関わっているのではないか。みんな競争社会の中で、他人のことを思いやる優しさも、いたわりを持つ余裕もなくしてしまい、その行き着く先が、少年の犯罪であり、心を病んだり、弱かったりした人々の「犯罪」ではなかったか。
 ベストセラーの「下流社会」(三浦展著・光文社新書)は、みんなが「中流」と思った時代の余裕が失われ、いま、日本社会の「格差」が拡大し、新たな貧困が生まれていることを指摘した。「競争原理」や、「新自由主義改革」を当然とし、「自由」の名の下に、格差も「弱肉強食」も「仕方がない」と考えさせられてしまう社会の風潮…。間違いなく政治が生んだこの状況をそのままにして、日本は良い国になるのだろうか。

 ▽「改憲ムード」をはねのけよう
 自民党は11月の創立50周年記念党大会で、日本国憲法の平和主義を骨抜きにする「新憲法草案」を決定した。なぜ、いま憲法を変えなければならないのか。
 「自衛隊を憲法違反のままにして置いていいのか」「平和主義は変えず、新しい権利を書き込もう」−。それが改憲派の論理だ。しかし、その自衛隊は、特措法さえ作れば、イラクにも行くことができた。そこで「戦闘をしない」ままでいられるのは、憲法9条第2項の「交戦権の否認」があるからだ。それなのに、この条項を削除して「交戦」できるようにしようというのはなぜか。既に見え見え。それは「米軍とともに戦う」ためである。その証拠が、10月末にまとまった米軍再編成の日米協議。司令部の配置から訓練まで、米軍と自衛隊の一体化を一層進めることが合意され、自治体から一斉に反発が起きている。
 歴史問題とそれを具現化した靖国問題を契機に、中国や韓国との関係が悪化する中で、北朝鮮への悪感情をかき立て、中国についても「警戒」論を広げるキャンペーンが続いている。「敵」をつくって危機を煽るのが、改憲には手っ取り早いからだろう。
「改革を競争する」とした民主党は、集団的自衛権の容認や、シーレーン防衛を主張し、「大連立はない」と言いながら、「改憲には与党も野党もない」という。
 いま大きく大きく動き出しているのは、「何のための改憲か」も、「立憲主義の論理」も、「非武装・非戦の基本」もそっちのけで、「改憲は当然」とするムードづくりだ。
 
 2006年。ことし、メディアはいよいよ「自分の言葉」で語らなければならない。世論におもねるのではなく、私たちの国と働く庶民のためにジャーナリズムを取り戻し、「ムード」ではなく、あくまで「道理」に基づく「水先案内人」にならなければならない。
 年の初めに、それを改めて考えたい。


国民の知恵と意識を」

▼自民党の大勝、国民投票法案審議のための「憲法調査特別委員会」の設置、民主党代表に「9条改憲論」の前原誠司氏…。事態は急ピッチで進んでいる。
▼自民党はなぜ大勝したのか、国民は本当に郵政民営化を支持したのか、こんなやり口でも小泉支持が多いのはなぜか。…答えはさまざまある。だがそのカギが日本社会の閉塞感と「改革」という言葉にあることは間違いなさそうだ。確かに「改革を止めるな」は「日本をあきらめない」よりも、あるいは「確かな野党」や「国民見ずして改革なし」よりも直裁的で積極的。野党はそれで敗れたのだ。
▼カネと競争原理の新自由主義にどっぷり浸からされ「負け組になるな」と追い立てられる国民は、余裕がなくなり「働けど働けど…」とじっと手を見る。いやそれさえできず、考える余裕も、選ぶ相手もないままに、自民党に入れた。そこには、憲法も、アジアの人々も、自分が戦場に行かされる危険さえ思い及ばなかったのではなかったか。
▼今回の選挙で自民党は、企業広報論で米国で学位を取った参院議員をキャップに「コミュニケーション戦略チーム」を設立、政策や候補者選び、宣伝・遊説・テレビ出演などの対応を一本化した。約15人の担当スタッフが毎日午前10時に集まって前日のメディアや世論動向をPR会社とともに分析、主張内容やテレビでのアピールなどの対策を立てたという。湾岸戦争でホワイトハウスが実行した方式だ。彼らは国際世論を創り、十数年かけ、結局フセインを葬った。▼世論操作の歴史は古い。だがやっぱり大切なのは、国民がそれにごまかされない知恵と意識をどう身につけるかだ。そこに、ジャーナリストの課題もある。


 
◎「9条改憲反対」はニュース
  ではないのか

        −−「九条の会」有明集会もベタ扱い

 昨年6月、鶴見俊輔、大江健三郎、井上ひさし、奥平康弘、小田実、三木睦子など、に9本を代表する文化人9人が集まって、「九条の会」を結成、「改めて九条を持つ日本国憲法を自分のものに。改憲の企てを阻むためにあらゆる努力を」と訴えたアピールを発表して1年。これを記念した講演会が30日、東京・江東区の有明コロシアムで開かれた。集まったのは、東京周辺だけでなく全国から約9500人。外国のメディアも取材した集会だったが、東京の大手紙はよくてベタ記事。読売は一行も載っていない扱いだった。
 「運動はなかなか取り上げられない」といわれ、それがメディアでは当たり前になっている。しかし、本当にこれでいいのか。いったい、ニュースバリューとは何なのか。既成のメディアは大きな批判にさらされなければならない。
 有明集会の各紙の扱いを見ると、朝日が第二社会面で「『九条の会』講演に9500人 大江さん詩を披露」で36行、毎日がやはり二社面で一段半くらいのスペースの横書き、写真付きで「『九条の会』が設立一周年」。東京も二社面で「『九条の会』講演会」とベタ扱い。読売には1行もないようだった。

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